2016年8月19日
その2)妙見さん由来碑の謎
図1がその妙見由来碑である。なお、中国明州(寧波ねいは)とは、現在の中華人民共和国浙江省の寧波市のことで、唐代の開元年間(713〜741年)には明州(めいしゅう)と呼ばれていた。寧波市は上海の西、杭州の東に位置し東シナ海に面し北九州に最も近い。
この妙見神の伝来には、中國伝来説と百済王(くだらのおおきみ/くだらのみこ)帰化説がある。中國説では、681年に中國の明州(寧波)から八代の竹原の港
図1 妙見由来碑 八代神社境内
に着岸されたとある。百済王説では、百済国王の斎明と第3皇子の琳聖(りんしょう)太子が帰化されたとある。二つの説とも、この八代の地に3年間仮座の後、約30km離れた下益城郡豊野村(現在は宇城市豊野町)に移られ、約90年の歳月を経て771年に再び八代の地に移られたとなっている。鎮座までに90年の歳月を要したということは、天照大神が現在の伊勢地区に鎮座するまで各地で遷座を繰り返したことに似ており、渡来人が先住民に受け入れるまでの道のりの険しさを想像させる。以上のことから、どうやら妙見さんは、7世紀、中国からの渡来人であることには間違いはなく、大変めずらしい。なぜ珍しいかと言うと、6〜7世紀、朝鮮半島からの渡来や、特に朝鮮南部からは戦争難民という形での渡来人が急増した時代だからである。この頃の渡来人は大和地方に居住して、中央政界において大いに活躍したことは周知のことである。
ところで、妙見さんは目深・手長 ・足早に変身されてやって来たとあるが、いったいどのような人であったのだろうか。一説では「目深」はキジ、「手長」はサル、「足早」はイヌで、桃太郎伝説のお供に類しているという。また、一説では風貌・容姿であるという。しかし、妙見宮実紀などでは三柱の神様の名は「目深検校」「手長次郎」「足早三郎」とあるそうである。検校とは、中国では官名、7世紀の日本では盲人の最高位役職名であり、平安・鎌倉時代には寺院や僧尼を監督する職名であった。したがって、変身された三柱の神様のお1人は僧侶であったかも知れないし、「手長」と「足早」には二郎、三郎がついていることからは兄弟だったとも推考できる。このことは後述するように、僧侶が黄河流域にすむたくさんの河童を日本へ連れてきたという話にも符合している。
前回でも述べたように、八代神社(妙見宮)は、もともと妙見菩薩を本尊とした寺から国常立尊や天御中主神へと習合発展してきた。この「妙見」とは「優れた視力」の意で、善悪や真理をよく見通す者ということ。「菩薩」とは、「悟りを求める修行者」のことだが、「妙見菩薩」は仏法や仏教徒を守る護法神(ごほうしん)のことで、帝釈天(たいしゃくてん)や四天王(してんのう)などがそれである。
<つづく>
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