2016年9月 9日
その5)河童の墓
河童像が鎮座する八代の薩摩街道の一角、十一里木跡や札の辻番所跡に立つ「徳淵の津・札の辻・河童渡来の碑」説明看板には次のようなことが書いてある。「この辺りは、・・・また、仁徳天皇の時代に九千匹の河童が中国より泳いで渡ってきた上陸地点とつたえられ、「河童渡来之碑」があります。・・・」
仁徳天皇の在位期間は4世紀とされているが、これは『古事記』や『日本書紀』に記述された在位期間を機械的に西暦に置き換えた場合の年代であり考古学的に、仁徳天皇がこの時代の人であるかどうか確証はない。したがって、この仁徳天皇の時代というのも、三国時代の呉の時代に合わせた後世の記述であろう。
ところで、河童とは何者であろうか。河伯(かはく)が日本に伝わり河童になったとされ、「かっぱ」の語源という。河伯は中国神話に登場する黄河の神さまである。河童神話では、河伯は人の姿をしており、亀や竜、または竜が曳く車に乗っているとされる。あるいは、白い竜や亀に変身するも人頭魚体であるらしい。
元々は憑夷(ひょうい)という人間の男であるという。河童がヒョウスベと呼ばれる所以もこんなところにあるのかも知れない。
河童が渡来人だとすれば、なぜ渡来人を河童という妖怪に仕立ててしまったのだろうか。河童とは何かという論争の中の一説に、民俗学的アプローチとして河童の先住民族説がある。日本に住み、後からにやってきたヤマト民族によって滅亡させられた先住民族についての記憶が、「河童」という形で残っているという見方である。筆者は逆ではないかと考える。つまり、河童は「ヤマト民族によって滅亡させられた先住民族」ではなく、「ヤマト政権基盤の先祖が河童と称する民族によって滅ぼされた」のである。万世一系(ばんせいいっけい)の皇祖神信仰において、皇祖が渡来人であってはならないし、渡来人が大和政権の構築に貢献したなどとは記録にとどめることはできなかったと考えられる。
神武天皇が日向を立ち大和を征服したとき、大和地方の先住民を鬼とか土蜘蛛(つちぐも)と呼だ。
土蜘蛛は有尾人で、人にして人に非ずとの表現をしている。征服者や勝者はいつの時代も従属しない反逆者を鬼や妖怪や悪者に仕立ててしまうのである。人吉球磨以南の南九州の熊襲(くまそ)もしかり、である。
後世、河童呼ばわりされた大陸や朝鮮半島からの移住者・渡来人は球磨川を遡って人吉球磨盆地を目指し定住するようになる。その証が相良村にある河童のお墓、図1である。場所は、球磨郡相良村大字川辺廻り。ここは球磨川の支流である川辺川のほとりで相良三十三観音、廻り(めぐり)観音、仏教で説く六道の一つ地獄道に迷う人を救済してくれる聖(しょう)観音御堂の近くである。
脇に立つ案内板「廻り河童伝説」には次のように書いてある。「河童の棲む淵で馬を行水させていたところ、河童が馬を引きずり込もうとして尻尾を引っ張った。ところが馬に陸に引き上げられてしまい、馬の持ち主に捕まり家の柱に捉えられてしまった。それを見た女中が可哀想にと、縄を解いてあげたところ、その日から、鮎などの魚が炊事場に届けられるようになった。長い間続いていましたが、ある時からそれがふっつりと途絶えてしまった。河童も老いて死んでしまったのだろうと思って供養のために墓を建立した・・」。
大分県中津市のお坊さんになった河童もおり、円応寺というお寺の墓地には戒名のあるお墓もある。天草も「河童来多」の地で、天草市栖本町の馬場から河内地区までの街道には多くの河童像が設置され「河童街道」として親しまれている。昔、百太郎溝で溺れて死んだ子供はガラッパに引き込まれたとか大人は言っていたが、やはり、河童は妖怪ではなくわれわれのご先祖である。
<つづく>
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