2016年9月16日
その1)球磨川の舟運
球磨川は人吉球磨盆地をほぼ東西に流れ、川辺川をはじめとする幾つかの支流を併せながら八代海(不知火海)に注ぐ延長115qに及ぶ一級河川である。球磨川は、最上川や富士川と並ぶ日本三大急流の一つと言われほどの急流が続き、かつては巨岩がひしめき水運に利用するのが難しかった。しかし、相良藩の御用商人であった林藤左衛門正盛という人が1662年(寛文2年)から私財を投げうって川底の開削事業に着手し、巨岩を取りのぞくなどして3年後には開削が完成し、川舟の航行が可能になった。その後の球磨川は外部との交通・物流の幹線となり、江戸時代には球磨郡湯前町と境をなす旧米良藩主も参勤交代でこの球磨川舟運を利用したといわれ、人吉・球磨地方の発展に多大な貢献をした。人吉城内には正盛の功績を讃えた「林正盛翁頒徳碑」がある。
明治40年頃の球磨川の水運風景の様子を今でもうかがい知ることができる。それは、現あさぎり町の深田西地区の球磨川右岸の「立岩」のところにある昔の船着場跡である。ここには井上微笑(いのうえ びしょう)の「大根舟 続く炭舟 下り舟」の句碑が建っている。大根や木炭を満載した舟が深田橋をくぐり人吉や八代方面に下っていったのであろう。1908年(明治41年)の肥薩線開通後の昭和の初期でも、球磨川は物産の運搬手段として舟運が利用されていたようである。ちなみに、井上微笑は、慶応3年の福岡県生まれで、人吉市に居住し湯前町役場に勤務した俳人である。
図1は、その頃の球磨川を航行する船の様子で、前方には数隻の帆船も航行している珍しい写真である。この写真は人吉在住の画家・書家である坂本福治さんから提供してもらったもので、写真には、「柳詰芳郎氏の兄さんの撮影、昭和4〜5年」とある。おそらく、人吉・球磨地方では写真機など見たこともない人ばかりの頃の写真である。「柳詰」という姓は球磨村に多いから、撮影場所は球磨村あたりかも知れない。
図2は、国土交通省九州整備局の「球磨川下流域の土木治水史について」の中で紹介されている「球磨川教材化資料集、第二集ふるさと八代球磨川」に収められている写真である。この写真から往時の球磨川舟運がいかに物流の大動脈であったかが伺える。年代は、船団の帆の形状からして、前写真と同じ昭和4〜5年頃のものと思われる。当時のこれらの舟は「平田舟」だったようである。平田舟というのは、平底の木造和船で、明治の頃から川沿いにある水田で刈り取った稲などの運搬や水田での往復に使用されていた「田舟」である。平底の田舟だから「平田舟」とよばれている。
昭和7年、(1932)与謝野寛・晶子夫妻は人吉を訪れ球磨川下りを楽しみ、幾首かの歌を詠んだ。そのなかの一首、球磨川の流れの歌を紹介しよう。
東より 球磨川西す 山国の 空なる月の しるべの如く <与謝野晶子>
図1 昭和初期の球磨川舟運風景(撮影:球磨村の柳詰芳郎氏の兄)
図2 同じ頃の球磨川舟運風景
(出典:球磨川教材化資料集、第二集ふるさと八代球磨川)
<つづく>
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