2016年9月23日
その2)球磨川の別名「ゆうばかわ」と「肥人」
球磨川は人吉球磨盆地をほぼ東西に流れる清流であり急流であることは「球磨人」であれば誰でも知っている。しかし、国土交通省の水管理・国土保全サイトによると、球磨川は、飛鳥、奈良、平安、鎌倉時代には「木綿葉川:ゆうばかわ」とか「夕葉川:ゆうばがわ」とか呼ばれていたとのことである。この川に麻の葉の流れて来るのを見て、麻の葉が流れる川ということで木綿葉川(ゆうばかわ)あるいは結入川、夕葉川と呼ぶようになったという。しかし、現在とは異なり、人吉から八代までの川を「ゆうば川」といったとのことであり、球磨川は人吉より上流の川のことであったらしい。球磨商業高校の北、錦町と相良村の間の球磨川にかかる橋は木綿葉橋である。
「木綿葉」とか「夕葉」はどんな意味なのだろうか。八代市には「夕葉町」があり「夕葉橋」もある。球磨川は八代市内に入ると、流れを90度西に変え球磨川と前川に分かれる。その前川にかかる「白鷺橋」詰の北地区あたりが「夕葉町」である。また、国道3号線で球磨川にかかる橋が「夕葉橋」である。このように八代では「夕葉」は珍しくない。この「ゆうば」は漢字では「夕葉」、「木綿葉」と書く。木綿(もめん)ではなく、木綿(ゆう)とは、ウィキメディアによると、楮(こうぞ)の木の皮を剥いで蒸したあと水にさらして脱色した繊維のこと、とある。しかし、飛鳥時代の歌人であり、万葉集の代表的歌人である柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)の歌の中には木綿(ゆふ)の出てくる歌がある。万葉集 巻11(人麻呂歌集)2496がそれである。
「肥人 額髪結在 染木綿 染心 我忘哉」。この漢文の読み方はこうである。肥人(こまひと)の額髪(ぬかがみ)結へる染(しめ)木綿(ゆふ)の染(し)みにし心我れ忘れめや。 意味は、球磨人(くまひと)が草木染めの麻で髪を結われていた珍しい姿が心に染みついて離れないように、あなたのことがどうしても忘れられない。この歌では、「木綿 ゆふ」は麻のことであると解釈されている。
もうひとつ、平安時代後期の公卿であった藤原定隆(ふじわら の さだたか)
という人の和歌に、麻の木綿葉川という歌がある。
「夏来れば 流るる麻の木綿葉川 誰水上に禊(みそぎ)しつらむ」
この歌からも木綿葉は麻の葉であることがわかる。意味は、夏になると球磨川に麻の葉が流れてくるけど、上流では誰かが麻を使い禊(みそぎ)をしているのだろうか、ということだろう。
さて、さきほどの万葉集巻11に収められている歌、「肥人 額髪結在 染木綿 染心 我忘哉」において、冒頭の「肥人」は、「こまひと」と読む。漢字からして肥後の人、つまり熊本県の人であるらしい。オンライン百科事典のウィキペディアよると、「肥人」とは古代の球磨川辺りに住んでいた人々、つまり人吉球磨盆地や八代群の旧上松求麻村や下松求麻村に住んでいた人達を指し、熊襲(くまそ)という説もある。しかも、この人たちは独自の文字を持っており、その文字のことを「肥人書」(くまびとのて)とか「肥人之字」と呼んでいたという。この文字は、阿比留文字(あびるもじ)とよばれる。対馬国の阿比留氏に伝わったといわれる文字であるから、そう呼ばれ、神代文字の一種である。神代文字とは、漢字の伝来以前に古代日本において使用されたとされる文字のことである。どんな文字かというと、図1に示すように、形はハングル文字に似ている。阿比留文字で刻んだ石碑が宮崎県都城市山之口町の円野(まとの)神社に建立されており、阿比留文字が存在したことは確かである。しかし使用された時期については諸説あり、古い方では538年頃、新しい方では1700年頃である。ちなみにハングル文字は朝鮮王朝の国王、世宗が1446年に制定したものである。ハングル文字がルーツであれば1700年説、ハングル文字の基になったという見解に立てば538年説となり、神代文字といえるが本当に球磨人の文字であったのかどうか、真偽のほどは分からない。
図1 阿比留文字(あびるもじ)出典:ウィキペディア 阿比留文字
<つづく>
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