2016年9月30日
その3)球磨は「求麻」:麻の栽培地であった!
前回も述べたように、球磨は万葉の時代も「麻」に関わりのある地であり、球磨はかって「求麻」と書いている時期があった。これは昔、八代の川に川上から麻の葉が流れてきたので、上流に行くと人が麻を作っていると思った。そして麻を求めに人がやって来るようになったので、この地を「求麻」→球磨と呼ぶようになったといわれている。
今から45年ほど前に発足した人吉球磨地方の郷土史研究会の名は、「求麻郷土研究会」、人吉城の別名は「球麻城」でもある。球磨地方の祝い唄「球磨の六調子」には、♪麻の袴を後ろ低う前高こう ひっつり ひっぱり ひっからげて・・♪と麻の袴(はかま)が出てくる。3世紀に書かれた魏志倭人伝にも倭人は麻の衣服をまとっていたと書かれている。その前後頃の遺跡である吉野ヶ里の甕棺からは麻の布切れが発見されている。どうやら八代以南は麻の栽培地であって、有明海は麻の海上流通路であった可能性が高い。なぜなら、明治22年(1889年)頃の八代群には「下松求麻村 (しもまつくまむら)」 という名の村があった。現在の八代市坂本町西部、深水、中谷、鮎帰(あゆがえり)にあたり、肥薩線の駅名でいうと坂本から段あたりまでの地域である。「上松求麻村(うえまつくまむら)」も当然あった。現在の八代市坂本町坂本、荒瀬、葉木、鎌瀬、中津道、市之俣である。肥薩線の駅名だと坂本、葉木、鎌瀬、瀬戸石あたりであり、球磨郡の球磨村や山江村に隣接する地域を含む。このように、「球磨」は「求麻」であり、麻の里であった。人吉球磨盆地では、麻の栽培がそんなに盛んだったのだろうか。図1は九州7県の麻の栽培面積の推移である。麻の生産は、昔から栃木県や長野県が有名であるが、九州では熊本県が昭和30年まで、最も多く生産されていた。
図1 九州7県の麻の栽培推移 出典:長野県大麻協会「大麻のあゆみ」1965)
そういえば、筆者も子供の頃、麻の葉をむしり、皮を剥く仕事を手伝った記憶がある。桑の木の皮を剥いたのもその頃である。
ところで、麻とはどんな植物なのか。麻は一年生の草本であり、大麻(たいま)または大麻草(たいまそう)とも呼ばれる。大麻(たいま)と言えば、日本では厳しく規制されている大麻(マリファナ)であるが、日本で栽培されてきたものは麻薬成分をほとんど含まない。
麻は、図2の左に示すように、約4か月で4メートルの背丈になるほど成長が早く、茎などから繊維が得られ、織って布地となればさらっとした感触で、ひんやり感がある。実は食用となり、油も取れるなど利用価値が高い。
先ほど書いた家事手伝いも麻の皮剥き作業であって懐かしい思い出であるが、筆者には読者に伝えておきたい用語がある。それは「麻留田」である。もう今時、このような用語をつかって講義をする先生はいないと思われるが、筆者の若い頃の金属材料学という学問では、その教科書や講義の中で見たり聞いたりしたものである。「麻留田」は、漢字を直訳すると麻の葉っぱが留まった田圃であるが、読み方は「マルテン」である。どんな意味かと言うと、鋼を焼き入れすると硬く、良く切れる刃先となるが、焼き入れ面を研磨して顕微鏡で拡大してみると、田圃の水たまりに麻の葉っぱが吹き寄せられ重なりあっている状態によく似た模様(組織)になっている。この組織変化はドイツのアドルフ・マルテンスという人が発見したので「マルテンサイト」と名付けられた。焼き入れたときの微細組織が重なり合った麻の葉に似ていることから、日本の有名な金属学者 本多光太郎博士によって麻留田(マルテン)という漢字の当てられたというわけである。ナショナリズムに押されて自然発生的に生まれた社会運動の敵性語排除時代でもあったが、麻留田はマルテンサイトにぴったりの当て字である。
脱線してしまったが、麻の里であった人吉球磨地方は、桑やイグサの里を経て、今は全国3位の煙草産地であり、28の蔵元がひしめく米焼酎・球磨焼酎の里である。この煙草(たばこ)や球磨焼酎については、後日、ふるさと探訪:「隠れ里の産物」のページで紹介する予定である。 (続く)
1)麻の刈り取り 2)麻の葉
図2 麻の収穫と麻の葉
(画像の出典:栃木県鹿沼市デジタルコミュニティ推進協議会サイト、他)
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