2016年10月14日
このように、身近に民衆の中に浸透していった庚申信仰であるが、まず、「庚申」とは何かというと、これは干支(かんし:えと)の一つであり、十干(じっかん)と十二支(じゅうにし)を組み合わせた60を周期とする数詞のことである。甲(こう)・乙(おつ)・丙(へい)・丁(てい)・戊(ぼ)・己(き)・庚(こう)・辛(しん)・壬(じ)・癸(き)が十干である。十二支は周知のように、子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥である。この十干と十二支を組み合わせたのが「干支」であり、10と12の組み合わせであるから60通りある。十干の一つである「庚」と十二支の一つである「申」が組み合わさったものが「庚申」であり、60年に1回「庚申」の年がくる。日数にすると60日に一回である。この年の夜、ないしはこの日の夜に人の体内のムシが、その人の罪を天帝(天上の最高神)に告げるために体から抜け出す。告げられた天帝は罪深き者を早死にさせるという。このムシのことを「三尸さんし」という。この「三尸」を封じ込めるために、庚申の夜は身を慎み、夜通し仲間と集まり酒盛りや話をして過ごす。これが「庚申講こうしんこう」や「庚申待ち」である。この行事を3年続けた記念に集落で建立したのが写真のような「庚申塔」とか「庚申塚」である。後でのべる青面金剛像(しょうめんこんごうぞう)を祀る御堂が庚申堂であり、やはり集落の中心の道筋に建っている。
ところで、「三尸さんし」というムシは人間の体内に棲み、宿っている体が死ぬと自由に動き回るようになるというこのムシはどんなムシなのだろうか。
図1 三尸(さんし) 右から上尸、中尸、下尸 出典:ウイキペデア
図1は中国唐代の書『太上除三尸九虫保生経』にある三尸の絵図である。三尸は上尸・中尸・下尸の三種類あり、上尸(じょうし)は道士の姿をしており人の頭の中に棲む。中尸(ちゅうし)は獣の姿をしており、人間の腹の中にいる。下尸(げし)は牛の頭に人の足の形をしている。大きさはどれも約3センチで、人間が生れ落ちるときから体内にいるとされる偶像物である。
この庚申信仰は人吉球磨地方に一体どこから伝わってきたものだろうか。現存する最古の庚申塔は、埼玉県川口市領家の日蓮宗実相寺にある庚申板碑は国内最古のもので、文明3年1471年建立である(図2)。この近隣、たとえば埼玉県戸田市の平等寺には1490年建立の庚申塔があり、東京都練馬区には1488年、千葉県成田市小野には1492年建立で、わが国最古級の庚申塔が存在する。これらの事実から、庚申信仰の伝来は、どうやら近畿や九州地方にではなく関東地方ではなかったかと考えられる。
九州で最も庚申塔の数が多いのは大分県の国東半島地域で780基、最古のものが1568年の建立である。国東半島地方では、元禄時代の1668年から享保年間の1736年までの48年に、実に519基の内の56%が造立されている。国東地方に次いで多いのが人吉球磨地方であり、600基以上が存在する。熊本県で最古のものは、熊本市小沢町西福寺の庚申塔(図3)で、明応8年1499年の建立である。人吉球磨地方で最古のものが前掲の1534年建立の錦町迫の庚申塔ある。次回は、青面金剛さまの役目である。(続く)
図2 国内最古の庚申板碑(1471年) 図3 熊本西福寺の庚申塔(1499)
文責:杉下潤二Tel: 090-3856-0715 Email: junji@siren.ocn.ne.jp