あさぎり町中部ふるさと会

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熊本県球磨郡あさぎり町出身者、及び あさぎり町と
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ふるさと探訪

2016年10月21日

第13回 ふるさと探訪 庚申信仰 その3)

 そこで古来より人吉球磨盆地に近く、交流のあった鹿児島県伊佐市や出水市の庚申塔の建立年を調べてみると興味ある事実が浮かんだ。図1は鹿児島県伊佐市や出水市に存在する庚申塔30基の建立年と人吉球磨地方の庚申塔32基の建立年を調べた結果である。図から明らかなように、人吉球磨地方の庚申塔の建立年は伊佐や出水地方より古く、約66年の差がある。しかし別途の調査結果によると、伊佐市や出水市より少し離れた姶良市蒲生町漆の庚申塔は大永3年1523年、  薩摩郡さつま町虎居の庚申塔は享禄4年1531年、薩摩郡さつま町(旧鶴田町)の庚申塔は天文3年1534年の建立であり、いずれも鹿児島県内では最古級に属する。ちなみに、球磨郡錦町迫の庚申塔は天文3年1534年であり、薩摩郡さつま町の庚申塔と同じ年である。 
 薩摩郡のさつま町は伊佐市に近く、人吉球磨盆地に近い。つまり、姶良地区で最初の庚申塔が建立され、さつま町虎居方面へ北上し、さらに伊佐市に近い鶴田地区から人吉街道を経て錦町迫地区に伝わったと考えられる。このルートは、拙著「縄文人は肥薩線に乗って」で明らかにした旧石器時代人や縄文人の移住ルートに近いのであり、時代は変わっても人や情報の流れは変わらないということである。ちなみに、隣接地域である八代市にはこのような古い庚申塔はなく、数も人吉球磨地方とは比較にならないくらい少ない。

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      図1 人吉球磨地方と伊佐・出水地方庚申塔の建立年比較

 庚申信仰において欠かせないのが青面金剛(しょうめんこんごう)であり、それを祀るのが庚申堂である。青面金剛は、日本仏教における信仰対象の1つであり、青面金剛明王とも呼ばれている。図2は青森県弘前市の金剛山最勝院の青面金剛立像であり、図3は、あさぎり町岡原に現存する庚申堂と堂内に安置されている青面金剛立像であるが、庚申信仰の由来を知らない子供達の遊び道具となって手がなくなった木彫である。先に述べたように、青面金剛はインド由来の仏教尊像ではなく、中国の道教思想に由来したもので、日本の民間信仰である庚申信仰の中で独自に発展した尊像である。青面金剛明王がなぜ庚申信仰に関係し、庚申講の本尊となっているのかというと、人の体内に棲み、告げ口をするとされる三尸(さんし)というムシを押さえる尊像とされるからである。「青面:しようめん」とは青色の肌のことで、一説によれば青は釈迦の前世に関係し、諸行無常の象徴色であるためとのことである。
 さて最後に、庚申信仰がなぜこの山あいの人吉球磨盆地で広まったのか、庚申塔が最も多い国東半島地方と何か類似点があるのだろうか。共通性があるとすれば神仏習合文化ではないかと筆者は考える。神仏習合とは、日本土着の神道と仏教が結びつき一つの信仰体系、宗教現象のことである。国東半島の宇佐神宮は仏教文化と我が国固有の神道を習合したもので、神仏分離以前は宇佐八幡宮弥勒寺と呼ばれていた。青井阿蘇神社も近世までは神仏習合であった。
                                             <続く>

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図2 最勝院の青面金剛像  図3 あさぎり町岡原の庚申堂と青面金剛像
図2の出典:弘前市の金剛山最勝院のHP


文責:杉下潤二 Tel: 090-3856-0715  Email: junji@siren.ocn.ne.jp


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