2016年10月27日
前回、第11回〜13回のふるさと探訪の中で、山深い人吉球磨地方には、九州でも国東半島に次いで庚申塔の数が多く残っており、庚申信仰やそれに伴う信仰行事が盛んであったことを述べた。さらに、距離的にも遠隔地ある両地方で、なぜ共通の信仰文化が芽生え根付いたのか、それは「神仏習合」ではないかという憶測もした。「神仏習合」とは、前述したように、日本土着の神道と仏教が結びついたもので、その基本思想は、八百万の神々はさまざまな仏(菩薩や天部など)が化身として日本の地に現れた仮の姿(権現ごんげん)であるとする考え方である。したがって、神道の神と仏教のお釈迦さまを同列のものとして認識することから始まり、神社のご神体に仏像が据えられ、僧侶が神前で読経するなど、寺でありながら神社のような、神社でありながら寺院のような神宮寺が建立されるまでに浸透していった。とりわけ、大分県の国東半島一帯では、古来よりあった山岳信仰の場が、奈良から平安時代にかけて寺院の形態を取るようになり、近くの宇佐神宮を中心とする八幡信仰と天台宗系の修験(しゅげん)と融合して神仏習合の独特な山岳仏教文化が形成された。今では三十三の寺院と番外の宇佐神宮を加えた国東半島三十三箇所巡りが盛んに行われている。
神仏習合でもう一つ典型的な例がある。熊野古道や熊野詣で知られる熊野三山である。熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社の三社では、祭神として速玉男命(はやたまのをのみこと)や天照大神(あまてらすおおかみ)および瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)など幾柱かの神々と一緒に千手観音や十一面観音、および薬師如来など多くの観音菩薩が祭神となっている。付け加えると、聖徳太子ゆかりの日本仏教の最初のお寺とされる大阪四天王寺の西門には神社のシンボルである石の鳥居が建っている。
人吉球磨地方での神仏習合は、具体的にどのようなものであろうか。最も身近な「青井阿蘇神社」と「三十三相良観音」から推考してみる。まず、人吉市の青井阿蘇神社は図1に示すように、地元では親しみを込めて「青井さん」とよんでいる。なぜ「青井」かとうと所在地が人吉市上青井町だからである。ではなぜ「阿蘇」がつくのだろうか。これは阿蘇市の阿蘇神社の分霊を神のお告げがあって人吉の青井郷に祀ったからである。阿蘇神社の祭神は、建磐龍命(たけいわたつのみこと:神武天皇の孫)とその后である阿蘇津媛命(あそつひめのみこと)、両神の子である国造速甕玉神(くにのみやつこはやみかたまのみこと)を祀る。この阿蘇神社と言えば、図2に示すように、先の熊本地震で重要文化財の楼門や拝殿などが崩壊した。この神社は、中世の戦国期に肥後中部で勢力を誇示していた阿蘇氏にかかわりの深い神社である。
阿蘇氏は健磐龍命の子孫であり、菊池氏や相良氏と並び熊本を代表する一大豪族であった。日本全国に約450の分社があり、当時は人吉球磨地方にも勢力を張っていた証が「阿蘇」神社である。人吉球磨地方には、人吉の青井阿蘇神社のほか、五木村の東俣阿蘇神社、水上村の白水阿蘇神社、球磨村の一勝地阿蘇神社、山江村の万江阿蘇神社、あさぎり町の阿蘇神社などがあり、阿蘇氏の勢力が人吉球磨地方にも及んでいたことがわかる。
この青井阿蘇神社は近世まで(1665年頃)は仏教の真言宗の神道に基づく神仏習合が行われ、祭神である建磐龍命(たけいわたつのみこと)は十一面観音を、阿蘇津媛命(あそつひめのみこと)は不動明王を、国造速甕玉神(はやみたかたまのみこと)は毘沙門天を本地仏(ほんじぶつ)とし、神体として仏像を祀っていた。この本地仏というのは、神の正体の仏のことで、たとえば、天照大神は大日如来とか十一面観音とされている。
実は、相良三十三観音の中には十一面観音や不動明王、それに毘沙門天を安置した観音堂があるのである。具体例を示すと、5番札所の鵜口観音では、ご本尊の両脇に毘沙門天と不動明王が安置され、23番札所の栖山観音には、持国天や毘沙門天像がある。9番札所の村山観音では十一面千手観音がある。十一面観音がある札所は多く、3番の矢瀬が津留観音、5番の鵜口観音、6番の嵯峨里観音、15番の蓑毛観音、22番の覚井観音、25番の普門寺観音にも千手観音や十一面観音が、27番の宝陀寺観音、30番の秋時観音などである。28番札所の中山観音には四天王が置かれている。このように、一大豪族であった阿蘇氏の勢力、支配が9世紀の始め頃には人吉球磨地方にも及んでおり、相良三十三観音は観音信仰であり阿蘇氏信仰であったともいえる。
<続く>
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