2016年11月18日
昭和20年2月、筆者はその時、満8歳であった。木上(きのえ)の高原飛行場が空襲を受け、爆弾が落ちたらしく黒い煙が立ちのぼるのをいとも簡素な防空壕の入り口から父と二人で見ていた。
それから71年、この地区に飛行場があったことなど気にも留めずいたが、2016年1月の朝日新聞デジタルに、「屋根無し掩体壕跡2基確認、人吉海軍航空隊基地跡」の記事がでていた。掩体壕(えんたいごう)とは、空襲に備えて戦闘機などを隠す施設のことである。「人吉海軍航空隊基地跡」というのは、人吉海軍航空隊がいた「海軍人吉飛行練習場」のことであり、われわれの地元では高原(たかんばる)飛行場と呼んでいた。
あさぎり町の深田西あたりから、球磨川沿いに国道33号線を人吉方面に向かうと、錦町木上北の山下あたりから標高が高くなりはじめ、標高155mほどの高原(たかんばる)に至る。ここには今から70年前、図1に示すような海軍航空隊が駐屯し、図2のような滑走路があったのである。場所は現在の錦町木上北の由留木(ゆるぎ)から相良村の柳瀬地区である。このあたりの今は開墾され、企業用地や耕作地となっているが、昭和20年2月からの艦載機による爆撃では戦死者が9名と民間人の爆死者が4名あったとのことである。33号線の右側には図3に示すような「人吉海軍航空隊之碑」や「人吉空予科練・留魂」などの記念碑や慰霊碑が建立されている。
元人吉海軍航空隊司令、田中千春の碑文によると「・昭和十九年二月球磨郡木上村川辺、球磨の清流に裾を洗わるる高ン原の大地に開隊第十八連合航空隊に属し全国の猛烈なる志願者より選抜採用された飛行予科練習生に整備教育を施し二十年七月解隊迄に凡そ六千の航空要員を実施部隊に送り出した」とある。碑文によると、同基地は1年半足らずの間に「凡そ六千の航空要員を実施部隊に送り出した」とあるが、訓練生は真に航空要員となることができたのかどうか、筆者にはもう一つのかすかな記憶がある。
それは、航空少年隊員の松根掘りであり、当時は飛行訓練どころではなく、松根掘りが日課であったからである。小学校1年生の頃、私も岡原地区の岡麓谷だったか宮麓谷だったか
図1当時の人吉海軍航空隊正門 図2滑走路跡(道路の左側) 図3人吉海軍航空隊之碑
写真1・2の出典:人吉球磨海軍航空隊を顕彰する有志の会
はっきりしないが勤労奉仕にかり出された覚えがある。掘り出された松根は集められ、ドラム缶のようなものの中で蒸し焼きのようにされていた。図4は当時の松根掘り風景であるが、このような山仕事を訓練兵士も民間人も総動員でしていた。松には、他の木材と比べ可燃性の樹脂(松脂:まつやに)を多く含み、特に、朽ちることなく残った心材部(赤身の部分)の可燃樹脂成分は高く、マッチ一本で容易に燃え移った。松脂の主成分はテレビン油とロジンというものである。テレビン油というのは、松脂を蒸留して得られる揮発性の油のことである。ロジンは、その粉末を布袋に詰めたものがロジンバッグであり、鉄棒や野球バットを握るときの滑り止めに使われたりするアレである。
松根油(しょうこんゆ)は、マツの切り株を乾溜することで得られる油状の液体である。松根油の成分はガソリン成分とは異なり、ガソリンと同じように精製しようとすれば、ガソリンエネルギーを4割ほど使ってしまい、効率がわるかった。それでも、航空燃料不足の時代である。「200本の松で航空機が1時間飛ぶことができる」などのスローガンのもと、図5のようなポスターまでつくられた。1945年、昭和20年3月には松根油等拡充増産対策措置要綱が閣議決定され、松根油を原料に航空用ガソリンを製造することとなった。そのため、原料の伐根の発掘には多大な労力が必要なため、学徒動員や無償労働奉仕が求められたのである。この松根油が航空用ガソリンの代替になるという情報は、ドイツから日本海軍に伝わった断片的情報であった。そのため精製法の詳細が不明で、実際に利用されることなく終戦を迎えた。人吉海軍航空隊基地(高原飛行場)からは6千の航空要員を戦場に送り出したとあるが、終戦末期のこと、多くの訓練生は本望ではない松根掘りにかり出されたのではないかと筆者は推察する。
<続く>
図4 松根掘りの勤労奉仕風景 図5 松根油増
産啓蒙ポスター
文責:杉下潤二 Tel: 090-3856-0715 Email: junji@siren.ocn.ne.jp