2016年11月26日
終戦は昭和20年の8月であったから、おそらくその翌年あたりであった。当時の球磨郡上村の方角に真っ黒い煙が立ちのぼっているのが岡原地区からも見えた。神殿原(こうどんばる)の飛行場で飛行機を燃やしていたのである。何日かたって、焼け跡に散らばっていた飛行機の金属部品を持ち帰ったが、どこに隠しても「デンパタンチキ」というものがあり、すぐ見つかってしまうから返してこい!と大人に言われ返しに行った覚えがある。
神殿原の飛行場は、正式には「陸軍人吉神殿原飛行場」、公文書では「陸軍人吉飛行場」
図1 球磨地方にあった二つの飛行場
出典:あだち安人氏プログ:人吉海軍基地跡・陸軍飛行場跡の調査だそうであるが、地元では「神殿原飛行場」であった。神殿原飛行場の位置を航空写真のサンプル画像に張り付けたものを図1に、前述の高原飛行場の位置も含めて示した。球磨郡には、このように陸軍と海軍の二つの飛行場があった。しかし神殿原の飛行場が陸軍の秘匿飛行場であることは長い間知らなかった。秘匿飛行場というのは、戦争末期になると本土爆撃が日ごとに激しさを増し飛行場が爆撃の対象になった。そのためきたるべき本土決戦に備えて、飛行場や航空機の温存に迫られ、敵機から発見されないように隠蔽した飛行場である。
2010年9月の人吉新聞に、木製の掩体壕跡が近くの民有地(現あさぎり町上狩所)で見つかったとの記事が載った。現在、球磨郡あさぎり町の教育委員会によって、土台となるコンクリートの基礎部分が4ヶ所、発掘されているとのことである。掩体壕は前述したように、また、図2に示すように、飛行機などが空から見えないようにした壕のことで、図2の左は断面図、右は正面である。「高原」と書いて「たかんばる」となかなか読めないが、それ以上に、「神殿原」と書いて「こうどんばる」とは地元以外の人は読めない。筆者も「こうどんばる」が漢字では「神殿原」と書くとは子供の頃は知らなかった。今では図3のように、神殿原飛行場の場所はわからない。しかし、相変わらずの黒ボク地ではあるが、いまは肥沃な恵みをもたらす大地となっている。写真から分かるように、ここの土は黒い。「黒ボク土」である。黒ボク土はもともと霧島火山帯からの火山灰であるが、火山灰に多く含まれるアルミニウムが有機物と強く結合する性質をもつため、年月とともに土壌中の有機物と混ざり合い黒くなったのである。飛行場がなくなったこの地区では、戦後、サツマイモ(カライモ)がつくられていた。筆者の家のカライモ畑もここにあって、収穫時には手指にカライモの白い乳液と黒ボク土が付着し水で洗ったぐらいではとれなかった。
<つづく>
文責:杉下潤二 Tel: 090-3856-0715 Email: junji@siren.ocn.ne.jp