2016年12月 9日
川が盆地の底を流れていては、川より高いところの田畑を自然流で潤すことはできない。この事実が二本の川(溝)開削の原点である。つまり、百太郎(溝)が初めにできて水路としての運用が始まると、その恩恵の大きさに領民は驚いたことだろう。でもその恩恵は、百太郎(溝)が通っている標高よりも低い農民たちである。現在の百太郎堰を図1に示すが、地点の標高は170mである。標高170m以下の地点を通る水路となって錦町の標高150mの原田川に達する。百太郎の水路から球磨川までの領域は灌漑農業域となるけれども、百太郎よりも高い地域ではポンプアップでもしない限り利水の恩恵を受けられない。
当然の願望として、百太郎堰より高地での取水が計画され幸野溝堰の築造が実行された。図2は現在の幸野溝堰とダムである。ここの標高は203mである。幸野溝は人吉球磨盆地の南縁を通る県道43号線(錦―湯前線)に沿っており、百太郎までの田園を潤している。 百太郎溝の灌漑面積は1500Ha、幸野溝の灌漑面積は1386Ha、合わせて2886Haの原野が今は実り豊かな田園となっている。百太郎溝も幸野溝も竣工300周年を過ぎたが、改めて先人の苦労を偲び先見性に感謝すべきであろう。特に、百太郎堰の凝灰石樋門の築造に当たっては、百太郎の人柱伝説が伝えられているが、この伝説には工事の困難さが凝縮されている。なぜなら、1669年から1712年までの期間でさえ、球磨川は5回ほど氾濫し、人吉大橋や大橋が流失し、青井阿蘇神社の楼門が1mほど浸水したことが二度ほどもあったとの記録がある。こういった大雨や洪水によって建設半ばの堰は何度も破損し決壊したであろうことは容易に想像でき、当時としては、水神様のお告げにすがるのも無理からぬ話である。300年以上にわたる激流に直撃された旧樋門の損傷跡は今でも痛々しい。百太郎公園を訪ねた折りにはぜひ見てほしい百太郎さんの脛(すね)傷跡である。
多良木町の慈願寺には、百太郎堰の築造と溝の開削にあたり人柱になったという百太郎の供養碑が建っている。図3がその百太郎之碑であるが、碑文には「南部利水計画に基く百太
郎大改修に際しその樋門の一部を移し開鑿当時人柱となりたる百太郎の供養と五穀豊穣の願いをこめてこの碑を建立す」とある。百太郎も幸野溝も、球磨川の分身となって球磨盆地の南縁を流れ、力の限り大地を潤し、やせ細った狭い溝となって元の球磨川に戻っていく。
図1 百太郎堰(多良木町) 図2 幸野溝堰(水上村)
図3 百太郎之碑(慈願寺) 図4 木上堰(あさぎり町深田)
図4は、宝暦9年、1759年に設けられた現在の木上溝取水口の石坂堰である。場所は、あさぎり町須恵石坂、深田北との境界付近である。標高141mの取水堰より県道33号線に沿って下流に流れ、深田小学校の真下を潜り抜け、深田西の古町あたりからは最後の隧道に入り、錦町の平川地区で地上に出て球磨川に注ぐ。この間の高低差16m、隧道の合計長さ790mを含め、木上溝の総延長は約5キロメートルほどである。
寛永年間(1624〜1645年)の人吉藩では2万1千石の新田開発がなされているが、これは百太郎溝の第1期工事が完了していた頃であり、その恩恵とみるべきであろう。次回に述べる予定であるが、明治初年、明治政府は天草から人吉球磨地方への開拓民の移住」政策を実施し、球磨郡にも数百人の開拓民が移住してきた。
このような政策が実施された背景には球磨盆地の灌漑用水路が完備し、明治初年には豊穣の盆地平野が整っていたことが知られていたからであろう。
♪ 不毛の土に 水を引き 豊かな郷に 育んだ 人の恵みを 仰ぐとき
われら岡原 中学の 使命は深く 胸にしむ ♪
これは旧岡原中学校の校歌で、校歌の作詞で有名な山口白陽氏(本名:山口経光)の作詞の歌である。♪不毛の土に水を引き、、、とは、百太郎溝や幸野溝などの用水路工事のことではないだろうか、中学生に限らず、球磨人は先人の労に思いを寄せ、その先見性のある企画と実行に敬意を表すべきである。 農林水産省は平成28年11月8日、歴史的価値のある農業用水利施設を登録する「世界かんがい施設遺産」に、日本国内から幸野溝・百太郎溝水路群などを選んだと発表した。
<つづく:次回は、天草から球磨地方への移民の話>
文責:杉下潤二 Tel: 090-3856-0715 Email: Junji@siren.ocn.ne.jp