2016年12月30日
現在の霧島連山を火口とするような火山の破局的噴火と火砕流が今から30万年位前に発生し、人吉球磨地方も10mを越す火砕物(火山灰や噴石)に覆われ壊滅した。この時代の九州は大陸と陸続きになっていたが人はまだいなかった。しかし、あらゆる生き物・動植物は壊滅した。それが加久藤火山噴火による火砕流である。当時さながらの風景が残っているのが東洋のナイアガラと称される鹿児島県伊佐市大口の「曽木の滝」である、規模こそ小さいが、加久藤火砕流の痕跡が今も奇岩風景となって人吉球磨地方の各地に存在する。
図1は、球磨郡あさぎり町深田西の古町付近の球磨川でみられる奇岩である。写真は古町橋から撮影した球磨川の河床であるが、流れに沿った細長い岩が並んでおり、あたかも大きな魚が浅瀬を泳ぎ、魚の背だけが見えているようなので原田正史先生は「魚背岩」と名付けられた。専門的にはこのような河床を「ヤルダン状河床」と呼ぶ。水の流れが長年の間に岩肌を削り取ったため流線型の岩になったのである。実は、この岩は凝灰岩、正しくは加久藤凝灰岩である。凝灰岩とは、火山灰等が降り積もり自己熱によって固まったものである。火山灰などの火砕物が陸上に堆積したものが深田石と呼ばれものである。火山灰等の火砕物は人吉球磨地方のどこででも降り積もったはずなのに、球磨盆地の南縁、つまり、多良木町の久米、あさぎり町の岡原や上地区では凝灰岩の堆積層は見られない。それはこの地区が人吉球磨盆地南縁断層によって陥没し、その上を沖積層が覆ってしまったからである。陥没しなかった球磨川右岸や錦町西地区および人吉市近辺には今も30万年前の火山活動と火砕流の痕跡が凝灰岩の形で残っているのである。後から述べる人吉駅裏の大村台や錦町西蓑毛の京ヶ峰(きょうがみね)横穴群の岸壁は約9万年前阿蘇山の噴火による凝灰岩、阿蘇凝灰岩である。阿蘇火山噴火に伴って形成された凝灰岩壁に造られた横穴墓の例は玉名市の石貫穴観音横穴群や山鹿市の鍋田横穴群などが有名である。
30万年前の加久藤火砕流跡が今も景観をなして親しまれている箇所が人吉市にはまだある。それは、図2の釜の奥戸(かまのくど)と呼ばれる鳩胸川の奇岩風景である。場所は、人吉市赤池原町の人吉クラフトパーク石野公園の裏手にあたる。
図1左:球磨川の古町橋付近の魚背岩(ヤルダン状河床) 右:左の拡大
ここでは、ポットホール(甌穴:おうけつ)と呼ばれる丸い穴のあいた加久藤凝灰岩が清流の中にいくつも見られる。ポットホールは水流の中の硬い砂が数十万年という長い年月かかって同一個所を渦巻き回転することによって形成されたもので、まさに悠久を感じる場所である。
もう一か所は、図3に示す人吉市鹿目町の鹿目の滝(かなめのたき)である。この滝で注目すべきは、流れ落ちる滝壁が柱状節理の加久藤凝灰岩であることである。柱状節理というのは、岩体が主に六角柱状に発達したもので、溶岩が冷却凝固するときにできる。それが降下堆積した火砕物の自己熱で凝固してできたものであるから大変珍しい風景である。宮崎県西臼杵郡高千穂町の高千穂峡も柱状節理の岩壁であるが、これは阿蘇山噴火(W)による阿蘇凝灰岩である。
人吉球磨盆地の災難は30万年前に終わったわけではない。約2万7千年前の鹿児島湾を火口とする姶良火山によるシラスの降灰堆積、約7300年前の鬼界カルデラと称される巨大海底火山の噴火によるアカホヤ火山灰(イモゴ)の降灰堆積など、数えきれないくらいの火山災害を受けたことは、今も残る球磨総合運動公園の古代層の露頭は前回で紹介したが、球磨川右岸の深田あたりからや錦町の西地区あたりには8mにも達する白い土、シラス堆積層が崖をなしており、この崖を利用して洞穴を掘り、さきに述べた人吉航空隊の物資保管庫や通信指令室など設置された。これらの遺構は今も存在している。赤い土、球磨地方ではイモゴとよばれるが正式にはアカホヤである。この土は約7300年前、指宿沖の海底火山(鬼界カルデラ)の大 噴火がもたらした火山灰である。これら古代地層は、黒い土のクロボク土とともに、球磨の歴史の語り部(かたりべ)でもあることを忘れてはならない。
<つづく:次回は、人吉球磨地方から肥薩峠を越え、または肥薩トンネルをくぐれば、そこは今年の地震地帯:布田川断層帯・日奈久断層帯である。
気がかりな人吉球磨盆地南縁断層の存在と地震発生の可能性について、素人目の話である>
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