2017年1月20日
ふるさと探訪も、連載をはじめて間もなく半年を迎える。中締めにあたり、最もふさわしい話題や記事は何かと考えぬいた末に思い当たったのが本題である。史家の間でも諸説あって議論百出、定説のない本題であるが、改めてふるさとの球磨は「狗奴国」「クマソ国」であることを人吉球磨地方の皆さんに訴え、熊襲復権、クマソ国サミット開催のロマン実現に向けての話題を提唱したい。
「出身はどこ?」「熊本県です」 「熊本はどこ?」「球磨郡です」 「あのクマソの子孫か・・!」
これは、筆者が63年も前に名古屋に出てきたときの先輩との交わした会話であるが、「・・クマソの子孫か!」という部分がなんとも軽蔑されたように聞こえたが、戦前の歴史教育に洗脳されていた頭では「クマソの子孫で何が悪い?」と思い返すことはできなかった。戦前の歴史教育における記紀神話は皇祖紳信仰心の高揚にとって格好の教材にされていた。王権に従属しようとしない人々は「まつろわぬ民」であり、「悪しき臣民」であり、逆賊とされた。クマソも王権に従わぬ逆賊として、景行天皇(けいこうてんのう)や日本武尊(やまとたけるのみこと)によって征伐され、こんにちの歌舞・演劇でも恰好の逆賊として悪者役に仕立てられている。宮崎県の都城市に伝わる「熊襲踊り」や九州南部の「バラ太鼓踊り」などもクマソ征伐の祝舞いとされていて、今日でも、逆賊の汚名は払拭されていない。そこで、3回にわたり、誇り高き熊襲の子孫となれるような話をする。
「クマソ」とは、弥生時代の九州南部に本拠地を構え、時の王権に抵抗し独立を守った人々、またはその人たちが居住し、支配した地域名であって、逆賊とは勝者や権力者が勝手につけた呼称である。「クマソ」のことは、1300年前の8世紀初めに編纂された古事記や日本書記の神話に登場する。古事記には「熊曾:くまそ」と表記され、日本書紀には「熊襲:くまそ」とあり、筑前国風土記では「球磨囎唹:くまそお」と表記されている。古事記の国生み・島生みの項に、伊邪那岐(イザナギ)・伊邪那美(イザナミ)の二柱の神は筑紫島(つくしのしま)を生んだとある。筑紫島とは九州のことであり、その九州には4つの国が生み足された。その4つの国とは、筑紫国、豊国、肥国、熊曽国である。筑紫国(ちくしこく)は、現在の福岡県のうち東部を除いた部分。豊国(とよのくに)は、現在の福岡県東部および大分県全域。肥国(ひのくに)は、現在の長崎県・佐賀県・熊本県北部。熊曽国は、熊本県の球磨郡・人吉市周辺から鹿児島県の贈於市や霧島市周辺である。人吉球磨地方のわれわれはクマソの子孫であり、末裔(まつえい)である。ウィキペディアによると、「クマソは九州南部に本拠地とし、時の王朝に抵抗し従わなかった」とある。九州南部とはどの地域のことなのか、魏志倭人伝(ぎしわじんでん)にある狗奴国(くなこく)はクマソ国なのか、時の王朝とはいつの時代の王朝・王権であるのか、そのあたりのことから関連資料をあさってみよう。
はじめに、狗奴国(くなこく)の説明からはじめよう。狗奴国とは、三世紀に書かれた中国の史書、魏志倭人伝の中に出てくる三世紀頃の倭(日本)の国名で、女王卑弥呼の邪馬台国には従属せず、対立しながら独立を保ち続けていた倭人の国名である。魏志倭人伝の原文は「・・其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不属女王・・」で、その読み下し文は、「・・その南に狗奴国あり。男子を王となす、その官に狗古智卑狗あり。女王に属さず」である。邪馬台国の場所については、九州説と畿内説に大別されるが、九州説論者は、この狗奴国の位置については肥後国・球磨郡に比定しており、邪馬台国畿内説論者も狗奴国が南九州であることを認める人が多い。また、戦前の邪馬台国論争の主導者の一人であり、東洋史学者で邪馬台国畿内説論者であった内藤湖南も狗奴国をクマソ国に比定している。九州王朝説を唱えられた歴史学者の古田 武彦氏、歴史学者の津田左右吉氏、それに、日本古代史学者で国立歴史民俗博物館の初代館長をつとめた井上光貞氏、最近では、考古学者であり、同志社大学の名誉教授である森浩一先生も、狗奴国は九州のなかで考えれば熊本県、とくに人吉盆地を中心としたところと語っておられる。
魏志倭人伝に書かれている狗奴国や、古事記にある伊邪那岐・伊邪那美の二柱の神によって生まれた熊曽国が人吉球磨地方以南の九州南部であったとするならば、いつごろ存在した国なのだろうか。このヒントは日本書紀にある景行天皇の九州征伐神話やヤマトタケル神話、つまり、ヤマトタケルによるのクマソタケル(熊襲建、川上梟帥)の征伐記事である。景行天皇が熊襲征伐に出かけたのは262年〜269年(景行12年〜19年)とされている。二度目の熊襲征伐は、景行天皇の子であるヤマトタケルによって行われ、277年(景行27年)である。つまり、今から1570年位まえの西暦260年〜270年頃にはクマソ国が存在していたことになる。この時期は3世紀であり、魏志倭人伝の中にあるように、狗奴国が女王国の邪馬台国に属さない国として記載されている内容からも妥当な時期と考えられる。
問題は、景行天皇の実在性や熊襲征伐の時期である。景行天皇は、古事記や日本書紀に記されるように、神武天皇を初代とした場合の第12代天皇であるが、初代そのものが神話年代であるから、在位が3世紀半ばであるのかどうか疑わしい。実在を仮定すれば4世紀前半ではないかと言われている。クマソは時の王権に従属しなかった逆賊とされているが、いつの時代の王権(王朝)なのだろうか。どこにあった王朝・王権に従わなかったのであろうか。わが国で法律に基づき、中央を中心とした政治や行政を行うようになった律令国家ができたのは7世紀であり、地方行政区の役所である国府、たとえば、九州では大宰府は7世紀後半である。3世紀や4世紀には大和王朝はなかった。仮に、現在は奈良県の大和地方に豪族集団があったとしても、九州地域までの覇権は及んでいなかったはずである。
魏志倭人伝には、狗奴国は邪馬台国に従属せず対立していたことが書かれているが、狗奴国が邪馬台国と近隣だからこそ利権が絡み対立していたのである。畿内に邪馬台国があっても遠隔地の九州の狗奴国は目障りではなかったはずである。したがって、狗奴国、または熊襲国が従わず対立していた王朝は、古田 武彦氏が唱える九州王朝であったと筆者は考える。この九州王朝説というのは、大宰府を首都とする七世紀末までの日本を代表する王朝のことである。7世紀末までとは言い過ぎの感を禁じ得ないが、大和朝廷以前に九州に大きな権力集団があったことは史跡や伝承から確かであろう。たとえば、神武天皇を祭神とする神社は熊本県には70社、広島県には37社、岡山県には32社、福岡県には16社、宮崎県には15社、鹿児島県は15社であり、畿内を圧倒している。
(つづく:次回はクマソ国であったことを示す伝承文化:傍証の話)
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