2017年1月27日
前回、「ふるさとの 球磨は狗奴国 熊襲国」と書いた。狗奴国は3世紀の中国の史書「魏志倭人伝」に書かれていて、邪馬台国と常に対峙(たいじ)していた国、邪馬台国の南にあると書いてある。邪馬台国が九州北部であれば、その南は、人吉球磨地方を含めた鹿児島県や宮崎西部一帯の九州南部である。クマソ国は、古事記には「熊曾」とあり、日本書紀には「熊襲」とあり、筑前、豊後、肥前、肥後国風土記など8世紀に編纂された「風土記」では「球磨囎唹」とある。5〜6世紀の大和政権でも九州南部は「熊襲国」として区分されていた。しかし、歴史書や歴史小説及び研究論文などで、多くの歴史家や考古学者がこれらの記述を検証し類推思考して議論がされてきたが未だ確証された国にはなっていない。ただ、狗奴国やクマソ国の傍証(ぼうしょう:間接的な証拠)に類するものは九州南部には沢山ある。熊襲踊りやバラ太鼓踊り、弥五郎伝説、隼人塚や熊襲穴、地下式板石積石室墓や免田式土器、これらはクマソやその末裔の隼人族に関連する傍証として伝えられているものである。今回はそれらの幾つかを紹介する。
図1は、クマソや隼人に関する伝承やその地の行事や芸能及び墓式の分布を一括表示したものである。クマソの墓ではないかとされる長崎県五島列島の地下式板石積石室墓は、この図から外れているが、小値賀島、新上五島および福江島に、あわせて3基が確認されている。この分布から明らかなように、地下式板石積石室墓の大陸から五島列島に伝わり、天草から八代海を渡り、水俣や出水などの北薩を経て人吉球磨地方へと伝播した。
図1 クマソ国傍証の書きこみ図
図2曽於市の弥五郎銅像➀、都城市の弥五郎(長男)
A都城市の熊襲踊りB、霧島市隼人町の隼人塚C
これは弥生時代の人の移住ルートでもあることを、先の拙著、「縄文人は久線に乗って」でも述べた。地下式横穴墓は、どちらかと言えば、大隅半島の肝付地区から宮崎県西部に集中しており、地下式板石積石室墓の族とは別かも知れない。しかし、両民族間の交流があり、やがて一体化していったことは、両墓式の折衷墓がえびの市周辺部に存在していることから明らかである。熊襲踊りやバラ太鼓踊りの由来はクマソ征伐伝説に関連し、隼人もクマソの末裔であると考えれば、弥五郎伝説や隼人塚もクマソに関わりのある現象であり記念塚である。 この弥五郎伝説というのは、鹿児島県曽於市、宮崎県の都城市や日南市で語り継がれ、祭礼行事が行われている。伝説の概要はこうである。昔々、九州の南の方に「弥五郎どん」という大きな体の人がいて、山に腰かけ海で顔を洗い、弥五郎どんが歩くと足跡は谷や池になったという。でも、弥五郎どんは大変やさしい人で、大雨で堤防が崩れると山から岩を持ってきてなおしてくれ、水が無いときは川をせき止めてダムを作ってくれた。またある時は、山のてっぺんに登って雷様を懲らしめてくれたりして、村人たちを助けながら仲良く暮らしたとのことである。 もう一つは、クマソの土器ではないかと言われる免田式土器とその分布である。免田式土器とは、図4のようなソロバン玉のような胴体で、あさぎり町免田の乙益重隆先生が名付けられた弥生時代の土器である。これまで発掘された免田式土器は、熊本県を中心とする南九州に分布し、150所で発見されている。熊本県では95所、特に人吉球磨地方では30ヶ所ほどある。鹿児島県の北薩摩地方や人吉の荒毛遺跡及びあさぎり町免田西の本目遺跡の地下式板石積石室墓から免田式土器の土器が出土している。
図3(左)地下式板石積石室墓(埋め戻し前の新深田遺跡:あさぎり町深田西) 図4(中)本目遺跡出土の免田式土器この遺跡にも地下式石板積石室墓がある図5(右) 本目遺跡発掘20周年記念で製作されたクマソ大王のキャラクター(バッジ)
図5は、クマソの墓の墓ではないか、クマソの土器ではないかと言われているあさぎり町免田西の本目遺跡の発掘20周年を記念して発掘者のひとり、大阪外語大学の佐古和枝教授らスタッフが作成したクマソ大王バッジである。このバッジは、あさぎり町議会議員の加賀山みつ子さんに紹介していただいたもので、同氏はこのバッジを胸に町おこし運動に勤しんでおられる。このようなクマソ関連グッズやキャラクター作りは町や地域の知名度アップにも重要で、焼酎では六調子酒造の「トロシカヤ」がある。トロシカヤ(取石鹿文)とは首領クマソタケルの名前である。鹿児島には薩摩料理の店「熊襲亭」がある。人吉か球磨地方に、ダゴ汁やシシ鍋、それにタカナ飯の店「球磨襲亭」がオープンしてくれたらと思う昨今である。 (続く:次回はクマソ復権の願いをこめて・・)
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