2017年2月 3日
霧島市隼人町嘉例川というところに図1に示すような「熊襲の穴」という洞穴がある。現在、観覧できる第一洞穴は、奥行22m、幅10m、天井までの高さが6mあり、広さは100畳敷ほどだそうである。第2洞穴の方は、崩壊箇所があり今は入れないが、300畳敷ほどの広さがあるらしい。入り口近くには案内板があり、それには、「・・昔、熊襲族が居住していた穴で、熊襲の首領、川上梟師(タケル)が女装した日本武尊に誅殺されたところで、一名(別名のこと)、嬢着(じょうちゃく)の穴とも言われる・・・」。「嬢着」とはどんな意味なのか、調べてみても答えになるようなものは出てこない。霧島市の文化振興課に尋ねてみても分からないとのことであった。辞書にも出てこないような漢字の使い方も問題であるが、「・・熊襲族が居住していた穴・・」という説明はもっと不適切である。旧石器時代ならばそうかもしれないが、熊襲は洞穴住まいだったのだろうか?この説明では、熊襲族が熊を襲うような狩をしながら、このような洞穴で寝起きしていた未開の蛮族、そんなイメージを想起させる。クマソ国は狗奴国の時代、今から約2000年前の弥生時代の国である。そのころの弥生人がどのような建物で、どのような生活をしていたのか、どのような文化を有していたのか、これらは吉野ヶ里遺跡や綾羅木遺跡の復元遺構をみれば明らかである。
もうひとつ、この洞穴管理者の文化財保護策には仰天するばかりである。それは、熊襲の穴の奥に描かれている図2に示すような前衛描画である。もともと洞穴にあった絵模様を復元したというのであれば、それなりの意義はあるかもしれない。違うのである。前衛画家、萩原さんの宇宙観で、熊襲の穴をパワースポットにしたいとの願望から、町の担当者を説得し描かせてもらったとのことである。これは史跡破壊に等しい行為である。
熊本県には装飾古墳が多く、全国の約30%が熊本県で発見されている。なかでも山鹿のチブサン古墳やオブサン古墳、鍋田横穴群などが有名で、これらの石室や石棺には色彩豊かな装飾がほどこされている。この熊襲の洞穴の装飾?は、これらの古墳を念頭にして描かれたものだろうか。九州における装飾古墳の分布は、宮崎-人吉球磨-八代を結ぶ線より北の地域であり、築造は古墳時代のものであり、2000年前の弥生時代の薩摩や日向西地方には装飾古墳は存在しない。「熊襲の穴」がクマソの居住していた所であるならば、その時代の伝承文化や芸能は考えにくいが、弥生時代にも素晴らしい文化があり、技術も伝承されていた。
図1 「熊襲の穴」入り口 図2 洞穴内の描画
弥生時代(前4〜3世紀)の佐賀県菜畑遺跡(なばたけいせき)から出土した彩文土器(さいもんどき)は黒い焼肌に鋸刃状の文様が彫られ、赤色顔料が塗布されている。人吉球磨地方の弥生時代遺跡、たとえば、免田西の本目遺跡からは図3に示すようなクマソの土器と言われる免田式土器が、同じく免田東の市房隠遺跡からは図4に示すような弥生式土器が出土していて、繊細であふれる気品は、この時代の人が高いセンスの持ち主であったことを示し、洞穴に棲み、粗野で武骨な民にはとうてい持てない造形感覚と言える。
弥生時代(2〜3世紀)の大分県日田市のダンワラ古墳からは金銀鏡(きんぎんきょう)出土している。この鏡は、金や銀、ガラス玉などを象嵌して文字や龍などを表した大変珍しい鉄製の鏡である。ダンワラ古墳から出土した鏡は金銀を象嵌した鏡であるが、あさぎり町の才園古墳の2号墳から出土した鏡は鍍金鏡、つまり金メッキした鏡で、図5に示すような「リュウ金獣帯鏡*」である。才園古墳は古墳時代のものであるが、「リュウ金獣帯鏡」は中国3世紀半ばの呉の国で作られたものとされる。確か、第6回のふるさと探訪:河童渡来伝説のなかで、今から約1800年前の弥生時代に「呉人呉人的来多」:呉人が八代の港に沢山やってきたという話を紹介した。このあさぎり町免田の才園古墳から出土した金ぴかの「リュウ金獣帯鏡」は、この人たちが持ち込み、古墳時代まで伝承した鏡(伝世鏡という)かも知れない。大分県の日田市あたりと同様、弥生時代の人吉球磨地方も、大陸の優れた文化の摂取し、異国との交流があったことを示す何よりの証拠である。「熊襲踊り」の謂れといい、「熊襲の穴」の説明といい、もうこのあたりでクマソ蔑視や勝者が保身のために伝えた謂れや伝承とは決別すべきである。一首、添え本稿を閉じる。
「ふるさとの 球磨はまほろば 熊襲国 誇れやわれら 熊襲の子孫」
図3免田式土器(本目) 図4弥生式土器(市房隠) 図5りゅう金獣帯鏡(才園)
(*「りゅう金獣帯鏡」のレプリカが、11/1〜11まで、あさぎり町役場本庁舎で展示されました)
文責:杉下潤二 Tel: 090-3856-0715 Email: junji@siren.ocn.ne.jp