2017年2月10日
2015年(平成15年)4月、人吉球磨地方(10市町村)が日本遺産に認定されたことは読者諸氏もご承知であろう。その申請時のタイトルは、「相良700年が生んだ保守と進取の文化〜日本でもっとも豊かな隠れ里─人吉球磨〜」である。この「日本でもっとも豊かな隠れ里」という文言は、司馬遼太郎が紀行集「街道をゆく3」「肥薩のみち」の中で述べているフレーズである。この地方が世間から隔絶された山里であったがゆえに、先に述べた庚申信仰や相良観音信仰、それに隠れキリシタンや隠れ念仏の里にもなった。また、球磨拳やウンスンカルタなど昔の遊びが人吉球磨地方にだけ伝承されているのも隠れ里だったからとも言えるのである。しかし、人吉球磨地方だけというわけではないが、どういうわけかこの地方で今も盛んであるという郷土芸能がある。
今回から、相良700年の不易の里に伝承されてきた芸能を紹介し、その特色や伝承経緯を推考してみようと思う。今回は、どこの地域よりも数多く根付き、伝承されてきた臼太鼓踊りについてである。そもそも臼太鼓とは、どんな太鼓なのかということから述べよう。「臼太鼓」という名の太鼓の種類はない。前に抱くようにして叩く太鼓が臼を横にしたようになっていることから臼太鼓と呼ばれる。しかし、沖縄の国頭郡恩納村では昔、木の臼を太鼓代わりに叩いたので、漢字では臼太鼓としたと伝えられる。
太鼓は大別して、胴太鼓と附締太鼓(つけしめだいこ)がある。胴太鼓はケヤキなどの丸太をくりぬき端面に皮を張ったものである。胴太鼓には、胴の長い長胴太鼓(ながどうだいこ)と銅の短い平胴太鼓がある。締め太鼓は、太鼓の皮を紐などで締めたもので、紐の締め加減で音を調節できる。桶胴太鼓(おけどうだいこ)は、胴太鼓と締め太鼓の特徴を生かした大型のもので、鉄の輪に皮を張り桶でできた胴にあてて紐でチューニングして使う。臼太鼓踊りという場合は、締め太鼓を使うのが一般的であり、大型の桶胴太鼓はほとんど使われない。
図1 椎葉村の臼太鼓 図2 沖縄エイサー用締め太鼓
図1は、典型的な締め太鼓の例で、宮崎県東臼杵郡椎葉村の民族芸能博物館に展示してあるものである。地方によっては薄型の臼太鼓が用いられている。
図2は薄型の締め太鼓の例で、沖縄の伝統芸能、エイサーで用いられる直径30センチ位の締め太鼓である。
「臼太鼓踊り」は先祖の霊を供養する念仏踊りが、華やかな衣装を付けた風流へと発展したもので、鹿児島県や宮崎県、それに熊本県の人吉球磨地方のいわば南九州一帯で踊られている。この「臼太鼓踊り」は鹿児島県や宮崎県側と人吉球磨地方とでは違いがある。大きな違いは「背負いもの」と「兜」を着用するか否かである。「背負いもの」というのは、背に負う飾り付きの槍や幟(のぼり)のことである。これは戦国時代の武将が戦場において、自分の背中や馬に取り付けて己の存在を誇示した長柄の先に付けた旗などに似ている。
人吉球磨地方では立物(たてもの)という鍬形や獣の角の飾りのついた戦陣用の兜を着けるが、鹿児島や宮崎地方では、兜はなく「背負いもの」をつけて踊るのが原則である。違いの分かる典型的な例を図3に示す。図3の左は兜着用の人吉球磨地方の臼太鼓踊りの例で、水上村上楠(うわくす)の臼太鼓踊りであり、図3の右は、兜はなく「背負いもの」をつけた臼太鼓踊りの例で、西都市の下水流(しもずる)臼太鼓踊りの例である。「立物」と「背負いもの」の違い、同じ踊りでも所変わればこうも変わる例である。
臼太鼓踊りの起源については、地方によってまちまちである。たとえば、この西都市の下水流臼太鼓踊りは、秀吉の時代、朝鮮半島を舞台に行われた文禄・慶長の役(1592年〜1593年)の際の加藤清正の戦術にあるとか、人吉球磨地方の臼太鼓踊りは江戸時代に武道奨励や士気鼓舞のため踊られ始めたとか、さらに、延岡市の行縢臼太鼓踊りは1578年、豊後の大友宗麟が日向に攻め入ったとき、島津軍の大将が自軍の士気を鼓舞するために始めたとか、である。いったい臼太鼓踊りはいつ頃、どこで始まって伝来したものなのか、熊襲踊りに使う「バラ」という太鼓は臼太鼓の原型なのか、南九州に伝わる「バラ」踊りとの関連など、次回は臼太鼓踊りルーツを探ってみる。 <つづく:次回は臼太鼓踊りA>
図3 水上村上楠の臼太鼓踊り 西都市の下水流臼太鼓踊り
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