2017年3月17日
湯前線!今の球磨川鉄道、昔は湯前線という名の路線名であった。湯前線は1924年(大正13年)に開通した。今から92年も前である。それ以来、湯前線は球磨人の足であり、蒸気機関車の汽笛は時計がわりであった。「あっ!10時だ!ヨケマンだ!」「あっ!もう昼だ!」などと汽笛が今の時報がわりであった。
図1はその頃の懐かしい8620型蒸気機関車と客車であり、貨物列車も走っていた。同図の右端は、湯前線開業当時(1924年:大正13年)の湯前駅であり、客待ちの人力車がとまっている。往時のタクシーである。湯前線はその後1897年(昭和62年)に地方交通線として廃止が承認され、1989年(平成元年)に第三セクター鉄道への転換が決まり、くま川鉄道となったわけである。
図1 1950年代の湯前線の蒸気機関車(左)と客車(中)、右端は湯前線開業当時(1924年:大正13年)の湯前駅 写真の所蔵:湯前町教育委員会(中神洋行・西田勝氏より提供)
今回は、この湯前線と宮崎県の妻線を結び、湯前から村所や西米良を通り、今の西都市や宮崎市に達する九州横断鉄道構想があったことを紹介する。宮崎県側の妻線というのは、かつて宮崎県宮崎郡佐土原町(現、宮崎市)の佐土原駅と西都市の杉安駅を結んでいたもので、1980年の国鉄再建法施行にともない特定地方交通線に指定され、1984年に全線が廃止された。湯前線は、球磨川鉄道となって形を留めているが、妻線は完全に跡形もなくなっている。この妻線のうち、妻から杉安までの区間は国から「不要不急線」に指定されたこともある。この「不要不急線」というのは、日中戦争から太平洋戦争に向かう頃(昭和16年頃)、武器生産に必要な金属資源の不足を補うことを目的に金属類回収令が公布され、線路も撤去され、レールを鉄資源とすることになった鉄道路線のことである。こんな仕打ちをされた妻線であるが、改正鉄道敷設法には、終点の杉安から湯前線の湯前まで結ぶ夢の計画が述べられていた。原文には「熊本県湯前ヨリ宮崎県杉安ニ至ル鉄道」、現在の地名、地区名での表記では、「熊本県球磨郡湯前町中心街より宮崎県西都市大字南方字杉安に至る鉄道」とある。この鉄道敷設法というのは、国が建設すべき鉄道路線を定めた日本の法律である。
図2は、肥薩線や吉都線及び日豊本線との接続を念頭に描いた湯前線と妻線の位置関係である。
改正鉄道敷設法にある予定線は、図の破線示す部分が予定路線であり、現在の道路でいえば219号線がそのルートに近い。完成すれば、久大本線や豊肥本線のような九州横断線になる予定だったこの構想は、戦況の悪化とともに霧散した。宮崎県の杉安側には掘りかけたトンネルが今で
もあるが、宮崎県側の妻線は廃線となってしまって、線路は公道となっている。球磨地方と西都市方面を結ぶ219号線は今も健在であり、西都市と村所、村所乗り換えの村所と湯前を結ぶバスも運行されている。
図2(左) 湯前線(上)と宮崎の妻線(下)を結ぶ構想(改正鉄道敷設法)
図3(右)筆者(右から二人目)らが中学生時代に描いた湯前―妻線構想のジオラマ
筆者は学生の頃、名古屋からの帰省おり、わざわざ遠回りして、日豊線から妻線経由で終点の杉安に向かい、国鉄バスで村所、村所で乗り換えて、湯前にたどり着いた学生時代の懐かしい思い出と道路である。
もう一つはもっと若い頃、夢に描いた構想の思い出である。昭和26年、岡原中学校2年生の頃、筆者らは、湯前線で市房山の下をトンネルで抜けることができれば、宮崎方面に早く行けるとのではないかという夢を持っていた。そこで、岡原中学校の理科クラブでは、この構想をジオラマにして文化祭に出典することにした。図3がそのときの作品である。左端が指導の乙益正隆先生で、先生は人吉球磨地方の植物研究家であり、これから紹介する「人吉球磨地方の自然」で詳述するが、新種のシダの発見で有名な方である。右から二番目が筆者である。当時の理科クラブ員には、現在、ふるさと関西会の旧姓唐津八重子さんもいた。作品は、湯前線を延長し、市房山はトンネルで抜け、妻線の杉安で接続させたものである。当時の国の予定路線が219号線沿いであれば市房山の真下は通らないはずであるが、その頃の我々は市房山を越えれば、その先は宮崎だと思っていたからである。この夢の路線延長構想、人吉・球磨地方から宮崎市への最短路線、構想的には我々、田舎の子供と国が考えた改正鉄道敷設法案の中身には大差はなかったのが70年近く経った今でも自慢である。この湯前線と妻線を結んだ線路が出来ていたら人吉球磨地方はどのように変貌していただろうかと思う昨今である。
<つづく:次週から郷土玩具の「きじ車」の話、目から鱗の話、そこに込められた親の願い>
文責: 杉下潤二 Tel: 090-3856-0715 junji@siren.ocn.ne.jp