2017年4月 6日
人吉球磨地方の「きじ馬」の特徴は、図1に例示するように、頭頂部に「大」の文字が書かれていることである。これには二つの説がある。一つは、人吉街道を伊佐市方面に向かうと久七峠に達するが、その手前の東大塚町や木地屋町の街道(267号線)は「きじ馬街道」とも呼ばれている。なぜかというと、今から約800年前の平安時代、平家の落人が都からこの地に落ちのびてきて「きじ馬」を作りはじめたからだという。製作することになった若者は、大塚地区の製作者の家に婿入りして「きじ馬」作りはじめたが、その秘伝を盗んで逃げ去ってしまった。しかしその後、罪滅ぼしと養家への感謝をこめて、「きじ馬」に大塚の「大」の字を書き入れるようになったというのである。しかし、叱られるかも知れないが、「きじ馬」を作るのに盗むほどの高度な技術が含まれているのだろうか。
もう一つの説は、平家の落人が京の都での「大文字の送り火」を偲び、幸運を祈って『大』の文字を刻んだというものである。この説は一考に値する。なぜなら、大文字の「大」という字は星をかたどったものであり、道教や仏教でいう悪魔退治の五芒星(ごぼうせい)につながるからである。
図2は、男の子のおでこに紅で書かれた「大」の字である。関西地区のお宮参りなどではよく見かける風景である。たしか、筆者の生まれ育った球磨郡あさぎり町の岡原地区でも、お宮参りか何かで顔見せに立ち寄った他家の幼児の額に、筆者の母親が指先で紅をつけてやっていたのを記憶している。「大」の字ではなかったことは確かであるが、この記憶もかすかなものであり、このような風習があったことに思い当たる方があったら、ぜひご連絡をいただければ幸である。幼児の額に、神の加護を受けていることを示す印の「+」「×」「大」「犬」「小」とかを書き込むことによって、魔除けのまじないとする習俗は、民族学者の柳田国男氏によれば、「阿也都古(あやつこ)」といい、平安時代からのものだそうである。第11回あたりからのふるさと探訪で述べた道教に基づく習俗の一つである。道教では五芒星の北極星は最高紳であり、魔除けの呪符(じゅふ:おふだ)として伝えられている。
図1きじ馬の「大」文字 住岡忠嘉作 図2 男の子の額の「大」文字
図3 五芒星と「大」の字 図4 五芒星の旧陸軍帽章
五芒星は図3に示すように、漢字の「大」である。関西地方のお宮参りなどで今も行われている幼児の額の「大」文字書きは、昔はかまどの墨で書いたとのことである。難を避け、健やかに成長することを願った親の願いが人吉の「きじ馬」にはこめられていると筆者は思う。
明治の初期から昭和の太平洋戦争直前まで、帝国陸軍の将校准士官が礼装時に着用する正
衣の正帽には五芒星が刺繍されていた。また、図4のように、大将から兵卒まで、大日本帝国陸軍の軍帽は五芒星であり、魔除け、弾除け(多魔除け)の意味をこめていた。
この「大」の字を「きじ馬」の頭部に書き込む例は大分県の北山田系や福岡県の清水系にはなく、人吉系の「きじ馬」や「きじ車」だけである。この一番特徴的なことを人吉の「きじ馬」では強調するべきではないかと考える。「大文字入りきじ馬」はなぜ、人吉だけなのか、これは人吉球磨地方が鎌倉仏教文化の地であり、仏教でいう悪魔退治の五芒星思想や八代から伝来した妙見信仰、それに中国の道教思想に基づく五芒星信仰が根付いていたためであろう。改めて、人吉以外の製作地のもので、キジによく似た「きじ車」を紹介しよう。図5の左は福岡県うきは市の「吉井のきじ車」。図5の右端は、福岡県みやま市瀬高の「清水寺のきじ車」である。キジは二本足、四本足の「きじ車」は「きじ馬」がふさわしい。
(つづく:次回からは、隠れ里・人吉球磨地方の自然・絶滅危惧種の話です)
図5 吉井の「きじ車」(うきは市) キジ 清水寺の「きじ車」(みやま市)
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