あさぎり町中部ふるさと会

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熊本県球磨郡あさぎり町出身者、及び あさぎり町と
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ふるさと探訪

2017年7月 7日

第50回 ふるさと探訪 球磨拳(2)

 現在のジャンケンは、中国の拳の遊びが長崎に伝えられ、江戸から明治時代にかけて盛んになり、それが日本の植民地支配地に伝わり、世界に広まったというのが通説である。そのジャンケンは球磨拳を簡略化したものとされている。ではその球磨拳のルーツは、いつ頃、どこで始まり、どのような伝搬ルートで人吉球磨地方に根を下ろしたのであろうか。
 乗馬クラブ主催のモンゴルト騎馬レッキング旅行に参加された方の紀行文(*1)によれば、モンゴルには「五すくみのジャンケン」があるそうである。その指の形は、1. 親指を1本だけのばす。2.人指し指を1本だけのばす。3. 中指を1本だけのばす。4. 薬指を1本だけのばす。5. 小指を1本だけのばす。いずれも、その他の指はみんな曲げるというものである。中指や薬指を一本だけ伸ばすのは少し難しそうであるが、勝負はどうして決めるのかというと、・親指は人指し指に勝ち、・人指し指は中指に勝ち、・ 中指は薬指に勝ち、・ 薬指は小指に勝ち、・小指は親指に勝つという「五すくみのジャンケン」である。もちろん、同じ指を出したときは「あいこ」である。ついでながら、日本人同士のモンゴル式ジャンケンで勝つためのコツは、ずばり、「親指」を出すことだという。なぜなら、日本人は人指し指が最も出しやすい体質だからだそうである。
 球磨拳に似た拳が、主に大阪地方で行われていた「大坂拳:おおさかけん」である。「大坂拳」は、片手指で0から5までの形を作って同時に出し、数字が一つ多い方が勝ちである。例えば、1は0に勝ち、2は1に勝ち、0は5に勝つというところは球磨拳やこの後述べる「本拳」と同じであるが、 連続して3回勝たないと一勝にはならない。
 間宮林蔵が樺太を探検し、間宮海峡を発見した頃の1808年、文化5年の江戸時代に刊行された「拳会角力図会(けんさらえ すまいずえ)という古書に次のような「打手之図」というものがある。これは中国から長崎に伝えられた本拳の指形を絵で示したものである。この拳は長崎に伝えられたので長崎拳とか長崎本拳という。この拳が中国伝来であることは、この書物の中にある数値(一,ニ,三,四,五、など)の呼び方(数え方)が中国語発音であることである。

図1 1808年の古書、「拳会角力図会」にある拳の指形(打手之図

図2 「拳会角力図会」にある江戸時代の本拳の様子(左)と
                                  拳相撲の座敷土俵

たとえば、「三は」以前述べたように、「サン」であるが、四は「スウ」、六は「リュゥ」、七は「 チエ」と同書図絵の「ケンの打方」にはふり仮名がつけてある。
 図2は江戸時代の本拳の様子であるが、この遊び方は、双方が何本かの指を立てて手を出し、合計の数を予想して言い合う。合っていた方が勝ちになる。指は0から5までの数字を作り、合計の数は0から10となる。数字の言い方は独特の呼び方、つまり、符牒(ふちょう:記号のこと)がついていて、前述のように中国語での数字の数え方である。図2の右は座敷に置かれた土俵で、江戸時代には拳相撲も行われていたようである。
 本拳(長崎拳)の長崎への伝来の時期は、前田利家や豊臣秀吉らが群雄割拠した16世紀後半とされているから、球磨拳よりも歴史は古い。したがって、球磨拳も前述のモンゴル拳や長崎拳を土台に改変され出来上がったものであろう。しかし、なぜ今も、人吉球磨地方にだけ残っており、伝承されているのだろうか。大阪商業大学アミューズメント産業研究所の高橋浩徳さんは、同研究所紀要の第15号から第17号に「日本の拳遊戯」というタイトルで詳細な研究成果を報告されている。その第16号「日本の拳遊戯(中)」で、同氏は、「球磨拳」は、他の拳と同様、江戸時代には全国的に知られ、遊ばれていたが時代の変化とともに次第に姿を消し、人吉球磨地方にだけに残ったものであり、これは、情報の伝達や取り込みが遅れがちなこの地方特有の地理的、文化的風土によって温存されたと指摘している。ちょうど、この地方だけに伝承されている「ウンスンカルタ」のようにと指摘されている。
 そういえば、16世紀にポルトガルから持ち込まれ、日本流に改良された「ウンスンカルタ」が人吉球磨地方にだけ伝承されている。これも江戸時代には全国的に流行したそうであるが、1790年頃、老中の松平定信が行った寛政の改革で禁止されてしまい、すたれてしまった。しかし、山奥の人吉地方には禁止策が届かなかったのか、届いても藩主が握りつぶしたのか、いずれにしてもこの地方にだけは残った。やはり、人吉球磨地方は昔から隠れ里であったのだろう。
*1(homepage2.nifty.com/r2o/mongol/jangken.html) 
  (つづく:次回は最終回!・・大昔の「あばれ免田川」の話) 
文責:杉下潤二 Tel: 090-3856-0715 Email: junji@siren.ocn.ne.jp

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