2018年4月 1日
杉下潤二 (あさぎり町中部ふるさと会顧問)
球磨総合運動場公園における湖底層露頭と古人吉湖の検証をされた原田正史先生が、今度は「驚愕の九州相良隠れキリシタン」という本を出版された(人吉中央出版、2012)。タイトルにもあるように、その内容は「驚愕」であり「目から鱗・・」である。たとえば、人吉球磨地方には1500基ほどの隠れキリシタン関連の墓碑が存在すること、墓碑には信者でなければ分からない文様や文字が彫られていること、最も驚愕なのは相良藩主も数代にわたって隠れキリシタンであったことや寺院の僧侶が隠れキリシタンであり、仏教主導のキリスト教信仰があったことなどである。しかし、人吉球磨地方は、隠れキリシタンの祈りの里だけではなく、一向宗(浄土真宗本願寺派)という仏教宗派の禁制による隠れ念仏の里でもあった。江戸時代、このキリシタン弾圧と薩摩藩や人吉藩による一向宗弾圧はだいたい300年間、時を同じくして実施された。なぜそうなったのか、信者はどんなやり方で信仰を全うしたのかなど、以下、順を追って基本的なところから話をしよう。
1.キリシタン弾圧と隠れキリシタンの祈り
・隠れキリシタンの墓
まず人吉球磨地方は、隠れキリシタンの祈りの里であったという話である。隠れキリシタンの地といえば、長崎県の平戸や佐世保市、それに五島周辺の島々や島原半島が思い当たる。熊本県では、やはり天草であろう。天草市の大江や河浦町崎津(さきつ)などがよく知られている。しかしこれら隠れキリシタンの里には、レンガ造りの教会があり、マリア像が建立されている。墓地には十字架の墓碑が立っていて、いかにもキリシタンの里という風情を呈しており、今や観光地にさえなっている。それに対して、人吉球磨地方の隠れキリシタン墓碑は、自立しているものもあるが、多くは無縁仏の墓として放置され、一か所に段積み状態で集積されたままになっていて、長崎や天草の観光地化したキリシタンの里に比べたら誠に静かでわびしいい。
隠れキリシタンとその墓碑について基本的な説明をする前に、典型的な隠れキリシタンの墓の例として原田先生が発見された球磨郡水上村岩野の「高瀬烏ハ臼供養碑」を紹介する。図1がそれである。「高瀬」は、碑の建立されている集落名で、球磨郡水上村岩野地区にある。「烏ハ臼」というのは、供養碑に書かれている文字の呼び名であるが、漢字ではないので、偏(へん)と旁(つくり)を呼んだものである。このことについては、後ほど詳述する。
図1高瀬烏ハ臼供養碑(左)とその謎の文字(右上)と蓮華文様(右下)
図において、右上は烏ハ臼文字の拡大、右下は蓮華紋の拡大である。これらの文字や文様は隠れキリシタン墓碑の特徴とされているが、詳細は後ほど述べることにする。一つだけ紹介しておくと、それは隠れキリシタン墓石の形の特徴である。図1のように、墓碑の頂部は三角形をなし、全体では五角形である。五角形の上部では三つの隅が交わっている。これは、キリスト教において「父」と「子であるキリスト」と「聖霊である聖神」、この三つが三位一体(さんみいったい)であり、唯一神であることを示している。したがって、頂部が三角の形をした古い墓石があれば隠れキリシタンの可能性がある。
・キリシタン弾圧の略史
そもそも隠れキリシタンとは、どういう人たちなのかということと、その禁教令と弾圧の歴史を簡単に説明しておこう。隠れキリシタンとは、1614年、江戸幕府が禁教令を布告してキリスト教を弾圧した後も、密かに信仰を続けた信者のことで、強制的に改宗を迫られても仏教を信仰していると見せかけ、キリスト教(カトリック)を信仰した信者のことである。しかし、明治6年、禁教令が廃止されてからでも潜伏を続け、教会に出向くことがなかった信者のことも隠れキリシタンと呼ばれている。
江戸時代(1614年)に禁教令が出たと書いたが、キリスト教弾圧は秀吉の時代に始まっている。信長と同じようにキリスト教容認の立場を取っていた秀吉は1587年(天正15年)キリスト教の宣教制限を表明し、バテレン(宣教師、神父、司祭のこと)を追放した。しかし、キリスト教への強制的改宗は禁止されたが、自由意志に基づく信仰は許され、貿易船の入港も継続され、大名も秀吉の許可があれば可能であったなど、緩やかな禁教令であった。
ところが、キリスト教徒が神道や仏教を異教とし、中には仏像を割って焚き物にするなど神社仏閣を破壊する事例が多発するようになった。また、ポルトガル船が日本農村の貧困につけ入り、特に日本女性を買いたたき、貿易船の船底に押し込め、外国へ連れ去る事態が九州、特に島原や天草地方で発生していた。このことについては、項を改め「島原の子守歌」とキリシタン弾圧の頁で詳しく述べる。ただここで一つ付言しておくと、秀吉の時代、1590年(天正18年)遣欧少年使節が帰国している。遣欧少年使節というのは、1582年(天正10年)に九州のキリシタン大名ら(大友宗麟、大村純忠、有馬晴信)の名代としてローマへ派遣された4名の少年(伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルティノ)を中心とした使節団のことである。1590年(天正18年)に帰国したが、この中の原マルティノは秀吉のバテレン追放令によって国外に追放された。ローマ教皇に謁見し、カトリック教会の本場で修行した4少年のひとり、千々石 ミゲル(ちぢわ ミゲル)は、こういったカトリック教の陰謀に対する不信感から司祭の道を選ばずイエズス会(カトリック教会の男子修道会)を脱会している。
話は戻るが、何よりも幕府が懸念したのは、あとで詳しく述べるが、戦国時代に起こった一向一揆のような信徒の武家政権に対する抵抗運動の高まりである。最初の禁教令を出して9年目の1596年、スペインの帆船が土佐国(今の高知県)に漂着した。その乗組員が「宣教師は日本領土征服のための尖兵である」と語ったことが秀吉に知れ、また、宣教活動が禁教令に対して挑発的であったことなどから、ついに、秀吉は堪忍袋の緒が切れて、京都に住むキリスト教徒全員を捕縛し、翌年、長崎で処刑した。これが世に言う「日本二十六聖人の殉教」事件である。
江戸時代になると、当初は禁教令もそれほど厳しいものではなかった。しかし、宣教師達やその団体は幕府の支配体制に組み込まれることを拒否し、活動も活発化していった。そしてついに、江戸幕府は1612年(慶長17年)、江戸・京都・駿府を始めとする直轄地に対して教会の破壊と布教の禁止を命じた。翌1613年(慶長18年)、幕府は直轄地へ出していた禁教令を全国に広げ、さらに、1616年(元和2年)に、幕府は最初の鎖国令を出し、その中に「下々百姓に至るまで」とキリスト教は厳禁ある旨を通達した。
幕末、開国が始まると禁教令の緩和が図られ、明治6年に、諸外国の反発も招いたこともあって禁教令は形の上では廃止された。しかし、明治政府としてキリスト教の活動を公式に認めるのは1899年(明治32年)になってからである。この間も、島原や天草地方では唐(から)ゆきさんは続いていた。「唐ゆきさん」とは、江戸時代から19世紀後半にかけて、主に東アジアや 東南アジアに売られ、娼婦として働かされた日本人女性のことである。
<つづく:次回は隠れキリシタン墓碑の見分け方>
<著者略歴と「続ふるさと探訪」について>
杉下潤二、Email: junji@siren.ocn.ne.jp 昭和11年(1936年)7月15日生、球磨郡岡原村(現、あさぎり町岡原北)出身。元名城大学教授、現、名誉教授、工博。専門は材料工学・トライボロジー、名城大学で教務部長・教育開発センター長・協議員などを務め、平成21年(2009年)に定年退職、平成28年に瑞宝中授章受賞。現在、あさぎり町中部ふるさと会顧問。
平成26年(2014年)に、人吉球磨地方の自然と歴史や文化を郷土の人達に再認識してもらうための「縄文人は肥薩線に乗って」を熊日出版より刊行。平成28年7月からは一年間にわたり「ふるさと探訪」を「あさぎり町中部ふるさと会のホームページwww.asagiri-chubu-furusato.jpに連載した。今回はその続編である。
続編の内容は、
1)人吉球磨地方が隠れキリシタンや隠れ念仏衆の祈りの里であったことの 紹介:8話。
2)肥薩線の川線(球磨川鉄橋)と山線(矢岳越え)沿線を紹介:3話。
3)今も続く人吉球磨地方の講金(こうぎん)と80年も前にアメリカのジョンFエンブリーさんを感心させた相互扶助精神の紹介:2話。
4)人吉球磨地方の昔懐かしふるさとの味の紹介:17話:45種のふるさとの味。これは、昨年の「ふるさと探訪」を読んで頂いた読者の皆さんにお尋ねした結果の報告である。
連載期間は、毎週更新で約7か月の予定である。編纂とアップロード作業は、今回もあさぎり町中部ふるさと会の溝口事務局長である。