あさぎり町中部ふるさと会

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続 ふるさと探訪

2018年4月21日

続 ふるさと探訪4 人吉球磨地方の隠れ信仰(4)

・相良藩主も寺院僧侶も隠れキリシタンだった!? 
 原田先生の「驚愕の九州相良隠れキリシタン」で驚くことは、藩主までも、寺の僧侶までも隠れキリシタンだったというくだりである。該当する藩主でいえば、相良氏の第20代当主であり、人吉藩の初代藩主である相良長毎(さがらながつね1469−1518)、相良21代当主で、人吉藩第2代藩主の頼寛(よりひろ1601−1667)、相良氏22代当主で人吉藩第3代藩主の頼喬(よりたか1641−1703)である。
初名が頼房(よりふさ)の相良長毎は明応8年(1499年)に人吉城主となっている。この長毎がキリシタン大名であったという証は、墓石にある戒名にあると原田先生は指摘されている。初代藩主、頼房(長毎)の戒名は「瑞祥院天嫂玄高」、2代藩主、頼寛の戒名は「天真院殿本源雄性」、3代藩主、頼喬の戒名は「天鬢院殿俊翁含英」である)。いずれも「天」のついたこの「天嫂(てんそう)」「天真(てんしん)」「天鬢(てんびん)」が隠れキリシタンの証拠とされている。ただ、キリスト教の伝来は1549年頃であり、秀吉が宣教活動を制限しバテレンを追放しのも1587年頃であるから、時代的に合わず、長毎は禁教令下での城主であったわけではない。したがって、墓石の戒名が隠れキリシタンのものであれば、おそらく長毎の子、頼寛や頼喬らによって改墓・改葬が行われた時に刻まれたものであろう。ちなみに、これら藩主の墓所は人吉の願成寺である。

 この「天嫂」「天真」「天鬢」が隠れキリシタンの証とされる理由は、隠れキリシタンは戒名に「天」とか「空」とか「心」という文字が良く使われ、ときには、鉄、岩、宗などの文字も用いられる。女性の隠れキリシタンの戒名に「天柱良苗禅定尼」というのが群馬県の館林市にある。長崎県の壱岐市には「南無阿弥陀仏」の「仏」が「イ天」という作り文字になっている隠れキリシタン墓石がある。この「イ天」という字が何を意味するのか、確か、帝釈天を意味する梵語の読みは「イー」であるが、真の意味は不明であり、「天」で摘発された場合の言い逃れのための偽装かも知れない。このように「天」が用いられるのは、「天」は万物を創造した唯一の神がいる世界であり、そこの神が「天主」だからである。
 人吉の願成寺の墓地には、梵字の頭刻(戒名の上に梵字を刻むこと)で仏教徒であることを欺き、蓮華紋でキリシタンであることを示した僧侶の墓がある。図11の左がそうである。この墓は、壊され散逸していたものを地元の人たちが拾い集め、保存してあるものであるとのことである。この墓石は隠れキリシタンのものであったことを示すのが蓮華紋である。しかし、それを隠すために、蓮華紋の上に、仏教の象徴梵語が刻記してある。筆者の調べたところでは、この梵語文字は、45の仏尊のいずれにも該当しない。ここで梵字というのは、古代インドのサンスクリット語を表記したもので、図11の右側に例示するようなものである。仏教の諸尊を梵字で表したものを種子(しゅじ)といい、仏尊を象徴的に表すものとして卒塔婆とか墓石などに書かれている。図11の右に、仏尊6例に該当する梵字を示したが、実際には、前述のように45の仏尊を象徴した梵語がある(守護梵字:しゅごぼんじ)。墓石の被葬者が浄土真宗の居士であれば、阿弥陀如来を表す梵字(梵字の最初)を、真言宗であれば大日如来の梵字(梵字の3番目)墓石に刻記するわけである。ただ、数多くの梵字があり、図の墓石の梵字も筆者の知らない意味を持つ文字もかもしれないが、45の仏尊に該当する梵字ではないことは明らかである。
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図11蓮華紋と梵字が刻記された僧侶の隠れキリシタン墓
(墓石写真の出典:原田正史著の「驚愕の九州相良隠れキリシタン」)

・人吉城の地下室礼拝所
 図12左は人吉城の相良清兵衛屋敷跡に建てられた人吉城歴史館であるが、この歴史館の地下に奇妙な地下室(図12中)がある。筆者も何度か訪れたが、何のための地下室なのか、この不思議な空間が気になっていた。歴史館の資料によると、相良藩家老の相良清兵衛(さがらせいべえ)が慶長年間の頃(1596年〜1614年)に建造し、1640年の「お下の乱(おしものらん)」直後に破壊され埋められていたとのことで、平成9年の発掘調査で発見されたものである。
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図12人吉城歴史館(左)と地下室礼拝所(中)と岡本の相良清兵衛の墓(右)
 この「お下の乱」を要約すると、相良清兵衛(犬童頼兄)は相良藩初代藩主の長毎(ながつね)の信望を得ていた。しかし、戦功が増すと勝手な振る舞いが多くなり、次第にわがまま勝手な振る舞いが目立つようになり、ついに、二代目藩主の頼寛(よりひろ)は相良清兵衛を幕府に訴えた。その結果、清兵衛は津軽藩に追放され、預けの身となり、家族は人吉城の「お下屋敷」に立てこもり藩兵と戦うことになり、敗れて身内も絶えたということである。相良清兵衛が地下室を作ったとされる慶長年間の1612年(慶長17年)は、先にも述べたが、キリスト教禁止令が施行された年であり、壊し埋め戻したのは1640年の後とされているが、
その三年前には島原と天草のキリシタン信徒が起した一揆「島原の乱」がおきている。

 ところで、この地下室は誰が、何の目的のために作ったものだろうか。保存されて資料には「西地下室遺構」とあるが、今日では「地下室礼拝所」であったというのが定説である。それは、五輪塔や地下室石垣から複数の十字の模様が発見され、吉城歴史館の中庭に建つ織部燈籠にはマリア観音像が彫られていること。相良藩主もそうであり、領民の中にも多くの隠れキリシタンがいたこと、また、人吉城築造に当たった石工衆はキリシタン大名であった豊後の「大友宗麟」の地元から呼び寄せられていること、など数多くの証が知られているからである。
 元相良清兵衛屋敷跡の地下室であれば、相良清兵衛も隠れキリシタンだったのだろうか。あさぎり町岡原南岡麓の岡本城跡といわれている中世の山城跡にある諏訪神社には3基の墓碑がある。その一基(図12の右の写真)がそれで、相良清兵衛の墓とされている。なぜなら、清兵衛は藩主との仲がまずくなった頃、この地に隠居所を定め優雅に過ごしていた時期があり、何よりも清兵衛の墓ではないかとされる所以は、その墓石に刻まれた戒名にある。戒名は「天金本然居士」とある。以前にも述べたように、相良藩主三代(初代の長毎、二代の頼寛、三代の頼喬)はなど隠れキリシタン墓の戒名には「天」の文字が刻んであるのが多い。人吉藩の家老であった清兵衛も隠れキリシタンだったことがこの墓の戒名からも推考できる。
<つづく:次回は偽装信仰のいろいろな形>

杉下潤二  junji@siren.ocn.ne.jp

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