2018年5月13日
・一向宗禁止と弾圧、そして隠れ念仏
藩主がキリシタンであれば、形だけの禁教令となり、領民のキリシタン信仰も緩やかな取り締まりの中で拡大していったと推察される。しかし、仏教信者や寺院との関係はどのような状態だったのだろうか。隠れキリシタンが装っていた信仰は、仏教の観音信仰や民間信仰の地蔵信仰や子安信仰、神道の天神信仰及び道教の庚申信仰など、様々な隠れ蓑をかぶって信仰を全うしていたことをのべってきた。このことは、次のような事例からも明らかである。たとえば、四国八十八霊場の一つ、53番札所、円明寺には隠れキリシタンのものとされるキリシタン石塔(灯篭)がある。大分県臼杵市の十六天神隣の摩崖像は、まさしく観音菩薩像に似せたマリア像である。また、臼杵市の掻懐(かきだき)という地域には、「庄屋址」の碑が建っており、碑文には、禁教下でのキリシタンの大量発覚が明らかになったおり、庄屋が寺の和尚と相談して領民を救ったことが書かれていて、いまでもこの地区の人達はこのお寺へのお礼を欠かさないとのことである。北鎌倉の光照寺は、江戸時代のキリスト教弾圧が厳しくなる中、隠れキリシタンを受け入れていた寺院である。
それでは、人吉・球磨地方ではどうであったのか、興味ある事実を原田先生は紹介されている。人吉・球磨地方で、明らかに隠れキリシタンの目じるし(指標)のある寺院僧侶の墓は36基あるとのことである。その指標とは、先にも述べたように、戒名に「天」「空」「心」などがあり、蓮華紋があり、卍があり、〇印が
刻んであり、形は五角形である。全てを満たしているわけではないが、指標の三つは墓石の中で確認できる。このように仏教寺院側にもキリスト教信仰が広がっていれば、当然のことながら改宗した仏教徒もいたはずである。しかし、あくまでも禁教令下での信仰であった。それを物語る石像が幾つかある。あさぎり町岡原の宮原観音墓地には卍や蓮華紋の墓がいくつもあり、湯前町下里に建立されている庚申塔には、なんと蓮華紋が刻まれている。庚申塔は、以前にも述べたように、道教に基づく信仰であり、国東半島や球磨地方に最も多く存在するので、隠れ蓑としては絶好のものだったと考えられる。
・相良33観音は一向宗の隠れ念仏と隠れキリシタンの祈りの場?
以前に筆者は、相良観音信仰の原点は神仏習合であり、阿蘇氏信仰の土壌の中で広まってきたと書いた。しかし、このように見てくると、この神仏の神は日本神道の神以外に西洋神、キリスト神も含むのではないかと考えることができる。つまり、隠れキリシタンの信仰は日本の神仏信仰を装いながら貫かれてきたことが明らかである。相良観音像はすでに平安時代に造立されたものもあり、古くから信仰されていたものであるが、相良33観音巡りは18世紀末の江戸時代、キリシタン弾圧が最も激しくなった頃から盛んになった。都合のいいことに、観音菩薩は相手の違いに応じて三十三種の姿に変えて顕現(けんげん:はっきりと姿を現すこと)すると説かれている。いわゆる33化身仏であるからマリア観音となり得るのである。参考までに、マリア像とマリア観音像、それに相良33観音の一つ、合戦嶺の聖観音菩薩像を並べてみた。それが図15である。
聖母マリア像 臼杵摩崖仏のマリア観音像 合戦嶺の聖観音菩薩
図15 聖母マリア像とマリア観音像、それに合戦嶺の聖観音菩薩像
相良三十三観音堂には、浄土真宗(以前の一向宗)の本尊「阿弥陀如来」が祀ってあるところがある。十三番観音寺観音(人吉市南願成寺町)、十八番札所廻り観音(相良村川辺)、二十一番札所永峰観音(あさぎり町深田永峰)、二十二番札所上手観音(須恵村上手)である。四国八十八ヶ所霊場巡りの寺院なかには、やはり「阿弥陀如来」をご本尊として祀っているところがある。第二番札所の極楽寺、第七番札所の十楽寺、第三十番札所の善楽寺、第四七番札所の八坂寺、第五十三番札所の円明寺、第五七番札所の栄福寺、第六十四番札所の前神寺、第六十八番札所の神恵院、第七十八番札所の郷照寺の9寺である。禁止されていたはずの一向宗(浄土真宗)の最も大切な阿弥陀如来像がどうして真言宗系の寺でもないのに祀られ、ご本尊になっていたことは、これらの観音堂や霊場が一向宗信仰の隠れ念仏寺の役割も果たしていたからである。
図16に示すように、相良33観音、10番札所の瀬原(せばる)観音にはマリア観音と噂されている石像があり、臼杵市の見星寺(けんしょうじ)という禅寺にはマリア観音像がある。四国88ヶ所霊場の第五十三番札所の円明寺(えんみょうじ)には「十字架形の灯篭」があり、合掌するマリア観音とおぼしき像が彫られている。この寺は、一向宗徒の祈り場であり、また隠れキリシタンの祈りの場でもあった。
瀬原観音のマリア観音? 見星寺のマリア観音 円明寺の十字架灯篭
図16 マリア観音とされる石像の例
一向宗禁教のなかで、もう一つの隠れ信仰、隠れ念仏の形態があった。それは懸仏(かけぼとけ)祈願である。懸け仏とは、図16に示すように、神の依代(よりしろ:神が宿るところ)である鏡の面(鏡面:表)に毛彫や線刻などによ
って描画されたもの(鏡像)である。図17は、わが国で最も古いとされている京都国立博物館の線刻阿弥陀五尊鏡像(重文)の懸仏(直径約11センチ)である。左が鏡の裏面、中央が表面で図柄のある鏡面で、阿弥陀如来像が線刻されている。
魔鏡の場合は裏面の図柄を投影して敬うものであったが、懸仏の場合は鏡面に描かれた仏を直接見て拝むのである。同図の右は、中尊寺の金銅釈迦如来懸仏が彫られた懸仏(約40センチ)で、やはり平安時代の作である。このように、懸仏は小さくて軽いので、懸けておけるだけでなく、持ち運びも可能であり、隠れ信仰には好都合な仏様であった。先ほども述べたように、懸仏は神仏習合、つまり、八百万の神々は、如来や菩薩や明王などの様々に仏が化身したものという考えに基づいているから、ご神体である鏡に仏を描画できるわけである。一向宗禁教において、信仰が発覚しても信者は神頼みができることになるわけである。
線刻阿弥陀五佛鏡像裏面 表面(鏡面) 金銅釈迦如来懸仏
図17 懸仏(かけぼとけ)の例
あさぎり町須恵 諏訪原(すわのはる)の諏訪神社には6枚の懸仏(銅製)が祀られている。また、同じ須恵地区には本如上人(ほんにょしょうにん)畫像と畫像の箱が残されている。本如上人は江戸後期の浄土真宗の僧で、浄土真宗本願寺派第19世宗主になった人である。このように、人吉球磨地方の人たちは、真宗禁制時代にあっても浄土真宗開祖の阿弥陀如来や高僧の御影を持ち込み、ひそかに信仰していたのである。
<つづく:一向宗禁止の理由と弾圧下の隠れ信仰と犠牲>
杉下潤二 junji@siren.ocn.ne.jp