あさぎり町中部ふるさと会

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続 ふるさと探訪

2018年5月19日

続 ふるさと探訪8 人吉球磨地方の隠れ信仰(8)

・一向宗(真宗・浄土真宗)禁止のわけと略史
 まず、一向宗(いっこうしゅう)の「一向」とは、鎌倉時代の浄土宗の僧であった「一向俊聖(いっこう しゅんしょう)」が説き始めた仏教宗派の一つである。浄土宗(浄土真宗)というのは、鎌倉時代に法然や親鸞が説いた教えで「南無阿弥陀仏」という念仏をとなえることによって極楽浄土への往生を願う宗派である。現在のわが国における宗派別の僧侶数では、この浄土真宗(本願寺派)が最も多い。この一向宗を薩摩の島津家が禁止する処置をとったのは、徳川幕府がキリシタンに対する宗門改めの制度で「宗門改め人別帳」の作成を諸藩に指示した寛文4年(1664年)で、キリシタンと一向宗の禁止を抱き合わせで取り締まったころからとされているが、実際はもう少し早く、慶長2年(1597年)、第17代藩主、島津義弘によって浄土真宗は禁止されている。相良藩の禁止もこの頃である。薩摩藩の一向宗に対する取り締まりや刑罰は厳しかったようで、浄土真宗本願寺蔵の「薩摩国諸記」という記録によれば、宗門取締り役所の庭に一向宗徒を引きずり出し、割木の上に正座させ、膝の上に五、六十斤(1斤=約600グラム)の石を乗せ、左右より棒で殴打、皮肉は破れ、血は流れ、脚の骨は砕けたとある。また、西本願寺鹿児島別院の境内には「涙石」が置かれている。この石が膝の上に置かれた石かどうか分からないが、石を抱かせて自白を迫ったとき、信者たちの苦しみと悲しみの涙が注がれた石という意味で「涙石」と呼ばれているとのことである。

 相良33観音十四番札所の十島観音(相良村柳瀬十島)には、浄土真宗禁制のころ、信徒たちが持っていた仏像、仏具、経典などが近くの神社で燃やされたと伝えられ、球磨郡相良村柳瀬には「仏像教典焼却の跡」の碑がある。さらに、柳瀬十島には「花立」という綺麗な名の地がある。室町幕府の時代、天文23年(1554年)、真宗禁止の頃、信者の家から仏像仏具が徴収・焼却されたが、その炎と煙を球磨川の対岸から、じっと眺めていた老婆が川端に花を供えて拝んだということから『花立』という地名になったとのことである。今も、球磨川右岸の岩崖の中に地蔵が立ち、切り花が備えてある。
 この柳瀬の地には、もう一つ真宗(一向宗や浄土真宗)禁教による痛ましい門徒の話が伝わっている。川辺川は相良大橋を過ぎると大きく左右に蛇行して流れ、柳瀬あたりで、図18に示すように、左に大きく向きを変える(写真の左が上流)。向きを変えるあたりが、通称『大曲りの淵』と呼ばれる淵である。この淵に、江戸時代の貞享4年(1687年)8月1日、細紐で互いの体を結び合った男女14人の死体が浮いた。この人たちは一向宗の隠れ信徒で、禁令を犯したことが役人に知れ、捉えられる前に入水自殺したものである。この淵が十四人淵(じゅうよったりぶち)と呼ばれる所以である。
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          図18十四人淵とその場所(球磨郡相良村柳瀬)

 相良村の西隣が山江村である。その山江村山田の合戦峰(かしのみね)に伝助やその一族の墓や供養碑がある。この伝助という人は、一向宗の隠れ信仰を手助けした「毛坊主」であった。藩の厳しい一向宗取り締まりに対して、門徒たちは秘密の仏飯講(ぶっぱんこう)と呼ばれた隠れ信仰集団をつくり、その集団(講)の世話役が「毛坊主」と言われた人である。坊主頭ではなく「有髪」だから「毛坊主」らしいのだが、非専業ながら僧侶の手足となっていた人である。相良隠れキリシタンの著者、原田先生の調べによると、人吉球磨地方における隠れキリシタンであった専業僧侶の墓は36基、その半分は非専業僧侶の墓とされていて、隠れ信仰を支えた伝助のような人が沢山いて、禁制下であっても信仰を全うすることができた大きな理由である。

 相良藩や薩摩藩はどうして一向宗を禁止することになったのだろうか。その理由として、@「阿弥陀如来の前には、全ての生きとし生ける命は等しく尊い」という浄土真宗の教えが、当時の封建体制にはなじまなかった。A浄土真宗の特異性、たとえば、「肉食妻帯」「有髪僧(うはつそう)」など、仏教戒律に違犯し、それを誇るかの如き所行があったとされている。また、先に述べた「毛坊主」が主導した隠れ信仰集団(仏飯講)は、しばしば、領外の浄土真宗のお寺を通じて本山の本願寺への上納も行っていたようで、領内のこうした金銀流出という事態も藩が憂いた理由の一つである。しかし、最大の要因は、それ以前に発生していた「一向一揆(いっこういっき)」にあったと筆者は考えている。一向一揆というのは、戦国時代に浄土真宗本願寺教団の信徒たちが起こした権力に対する抵抗運動、戦いである。最初の一向一揆は文正元年(1466年)、将軍が足利義政の室町幕府時代に起こった近江の国の金森合戦である。詳述は避けるが金森合戦とは、僧兵を持ち強大な権力を擁していた比叡山の天台宗延暦寺対蓮如上人が率いる浄土真宗門徒の争いである。しかし、一向一揆は、そのあと天正3年(1575年)までの約140年間にわたり、主なものだけでも10回ほど発生して、時の権力者に対する抵抗運動であった。筆者の住む桑名市長島町には、元亀元年(1570年)から天正2年(1574)にかけて起こった「長島一向一揆」のことが今も伝承されており、一揆の拠点であった「願証寺」も場所は変わったが現存している。

 どうしても解せないのが相良藩の一向宗禁止である。何事にも積極的な大藩の薩摩藩の禁止策は理解できるが、幕府の禁令も早急には到達しなかった山奥の相良藩、キリシタン禁制にも寛容であった相良藩がなぜ一向宗禁止に踏み切ったのかである。一説によると、相良藩は肥後の諸地とは交渉がなく、地理的に南接する薩摩藩と深く関係があったようで、このことは古代からそうであったことを拙著「縄文人は肥薩線に乗って」でも明らかにした。したがって、宗教政策も薩摩藩に従って一向宗禁制を出すに至ったとのことである。しかし、そうだろうか。薩摩の島津本家は何かを恐れていたのではないだろうか。相良藩ではなく、それは豊後国(今の大分県)の大友宗麟(おおともそうりん)である。大友宗麟は戦国時代、九州の豊前、豊後、筑前、筑後、肥前、肥後(北部)の6か国を支配下に収めるなど九州随一の勢力を誇った武将であった。何より有名なのはキリシタン大名だったことである。薩摩の島津家は、キリシタン武士や武将の信仰心に裏付けられた強さを一向一揆の武装集団と結び付け、恐れていたことが一向宗禁止を相良藩にも押しつけた理由であろう。そういう薩摩の戦略が功を奏したのか、天正6年(1578年)の耳川の戦いで大友宗麟勢力は薩摩国の島津義久に大敗して一気に没落の道をたどっていった。しかし、薩摩の島津家も、天正15年(1587年)、秀吉の島津攻略にあい秀吉に降伏し、九州が平定されたことは周知の事実である。

<本稿終りです、ご笑覧いただきありがとうございました。:次回から100周年を迎えた肥薩線の川線と山線の話です。
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杉下潤二 junji@siren.ocn.ne.jp

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