あさぎり町中部ふるさと会

あさぎり町中部ふるさと会とは
熊本県球磨郡あさぎり町出身者、及び あさぎり町と
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続 ふるさと探訪

2018年5月26日

続ふるさと探訪9 肥薩線(1)

・肥薩線は鹿児島本線であった
平成29年(2017年)、JR九州メールマガジンは『11月12日、人吉は100年前にタイムスリップします!』という見出しで配信されてきた。内容は、『11月12日は、人吉駅前広場で肥薩線開通当時の100年前を再現するイベント「ノスタルジック人吉」を開催します。列車内からその雰囲気を楽しんでいただけるよう、肥薩線を走る「SL人吉」、「かわせみ やませみ」、「いさぶろう」、「しんぺい」に乗車の客室乗務員が「ハイカラさん」などの大正ロマン溢れる衣装で乗務します。車内で販売しているオリジナル弁当の掛け紙も、およそ100年前の絵ハガキを使った限定のデザインで販売します。人吉駅前では、SL人吉の労をねぎらい、SLが活躍していた100年前の衣装でみなさまをお迎えします。その他、郷土芸能の披露や人吉温泉女将の会による、明治時代風のカフェのおもてなし、人吉名産「球磨焼酎」の試飲も行います』というものであった。
たしか、SL人吉号は95歳を超えているとか聞いた。今回は、その人吉号が今も頑張って走っている肥薩線(川線)の鉄橋:球磨川橋梁の話である。

 肥薩線とは、熊本県の八代駅から鹿児島県霧島市の隼人駅に至るJR九州の鉄道路線である。八代駅には「肥薩線0(ゼロ)起点八代駅」の看板がホームの柱に貼り付けてある。肥後と薩摩を結ぶから肥薩線、人吉駅からは、奥球磨の湯前町まで第三セクターの球磨川鉄道、昔の湯前線(ゆのまえせん)につながっている。吉松から都城までは「吉都線(きっとせん)」であるが、八代から都城までを合わせて「えびの高原線」と爽やかな名前で愛称されている。
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図1 肥薩線の路線図と球磨川第一橋梁を渡るSL人吉号(Wikipedia)
 図1は、現在の肥薩線の路線図と後で述べる球磨川第一橋梁とそこを渡るSL人吉号である。沿線は、八代駅から人吉駅までは球磨川沿いに走り、日本三大急流の一つである球磨川渓谷の景観を望むことができ、この区間を川線と呼んでいる。人吉駅から吉松駅までは熊本県と宮崎県の山地を走るので山線と呼ばれる区間である。人吉駅を出るとすぐ日本最古の大畑駅のループ線とスイッチバックがあり、矢岳越えでは日本三大車窓の景観を眺めることができる。ちなみに、吉松から隼人までの区間は「田園線」というのだそうである。
人吉と吉松間が全通したのは明治42年(1909年)で、その前の明治34年(1901年)に鹿児島⇔国分(現隼人)間が完成し、明治36年(1903年)吉松まで開通していたので、これによって門司-人吉-吉松-隼人-鹿児島間が結ばれ、鹿児島本線となり、九州縦断鉄道網が完成したのである。しかし、昭和2年(1927)年に川内(現在の薩摩川内市)- 鹿児島間が開通し、隼人-鹿児島間が日豊本線に編入されると八代-隼人間は肥薩線になってしまった。

この時期、肥薩線が鹿児島本線であったことを示す絵葉書がある。湯前線の開業を記念して当時の鉄道省が発行したものらしい。珍しいので図2に紹介する。この絵葉書には、湯前線の開業は「大正13年3月30日」とあり、凡例に現在の肥薩線は鹿児島本線と明記してある。図の右は、開業当時の湯前駅で、駅には人力車が待機してのどかな風景であるが、この湯前線を宮崎県の杉安方面に延長する構想があったことなど、先の「ふるさと探訪、あゝ湯前線」では紹介した。
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図2 肥薩線が鹿児島本線と書かれた絵葉書と開業当時の湯前駅
肥薩線の人吉〜吉松間は天下の難所であり、難工事であったが明治政府の威信をかけ、鉄道技術の粋を集めて工事は行われた。肥薩線の難工事で犠牲になった人達「鉄道工事殉職病没者追悼記念碑」が大畑駅のループ線入口に建てられている。図3の左がその碑である。
いまでも、221号線で宮崎や鹿児島方面に行こうとすれば、県境の山地は急峻で、二つのループ橋(螺旋状道路に架かる橋梁)を越さなければならない。肥薩線(山線)がどれくらい急峻なのかは大畑駅のループ線(高低差の大きな線区で勾配を緩くするため、線路をループ状に一周させて勾配を克服するための線路)やスイッチバック(急勾配を 克服するため、線路をZ字型に建設したもの)からもわかることであるが、筆者は人吉駅から吉松駅までの標高を調べてみた。  
図4がその結果である。縦軸(標高)と横軸(人吉からの距離)とでは単位
が異なるので誇張されているが、当時の蒸気機関車のパワーでは「胸突き八丁」の線路であった。それゆえに悲惨な事故も発生している。なかでも悲惨だったのが「肥薩線列車退行事故」という事故である。第二次世界大戦終戦直後の昭和20年(1945年)8月22日、肥薩線の吉松駅と真幸(まさき)駅間の山神第二トンネル内において、蒸気機関車(D51)が前後から牽引と後押し状態で走っていた。人吉方面に向かって引っ張っていた牽引機関車が勾配を登り切れず停車してしまった。先頭の機関車はトンネルから出たものの、後押し機関車は、煤煙の充満するトンネルの中で客車ともども立往生する事態となり、排煙を逃れようと乗客は線路に降り逃げ始めた。ところが、乗客がトンネル内を歩いていたところへ、同じように排煙から逃れようとブレーキを緩めて後退してきた列車に次々とひかれて53名が死亡した。その多くが復員兵で、せっかく生きて帰れたのに、ふるさとを目の前にして事故でなくなるとはまことに哀れである。山神第二トンネルの人吉側出口には、図3右に示したような慰霊碑がたっている。写真の奥に山神第二トンネルの人吉側出口が見える。
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図3 肥薩線工事殉職者とトンネル出口の「肥薩線列車退行事故」殉難碑

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図4 肥薩線のうち山線区間の標高差
 筆者はかねてより、八代から鹿児島方面に向かうのに、なぜ八代海(不知火海)沿岸など平地の多い海側に線路を作らなかったのかと不思議に思っていた。本稿を足すにあたりそれがやっと分かった。なぜ、水俣、芦北、水俣および出水など平地の多い海岸線沿いを選ばず、難工事が予想される山間線に決めたのだろうか。実は、当時、日清、日露関係が懸念される状況下であり、最終的に陸軍からの意向で、艦砲射撃を受けないこの路線に決まったのだそうである。この路線をいかに政府が重要視していたかは、八代−鹿児島間が第一期線に編入され、宇土−八代間は民営の九州鉄道に工事をまかせ、八代−鹿児島間は官設と決まったことである。理由は「軍事上の必要」とされているが、南九州の精兵を動員輸送するためであった。ちなみに、日清戦争は明治27年(1894)〜明治28年(1895)、日露戦争は明治37年(1904)〜明治38年(1905)であり、人吉と吉松間が全通は前述したように、明治42年(1909年)である。  
 そういえば、肥薩峠越えで思い出すのは、西南戦争のとき、西郷さんが熊本城の幕府軍を攻めるために辿った道も、海岸ルートではなく久七峠越えの山道であった。負けて逃げ帰った道も険しい加久藤峠や堀切峠で、いずれも海からの艦砲攻撃を回避したかったからだとか聞いたことがある。
  <つづく:次回は球磨川第一橋梁と第二橋梁が斜橋であるわけ>

杉下潤二(あさぎり町中部ふるさと会顧問)junji@siren.ocn.ne.jp

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