あさぎり町中部ふるさと会

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熊本県球磨郡あさぎり町出身者、及び あさぎり町と
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続 ふるさと探訪

2018年6月 9日

続ふるさと探訪11 肥薩線(3)

・山線の駅と矢岳越え 
肥薩線の下りだと人吉の次が大畑駅、大畑の次が矢岳駅である。この駅の標高は約537m、肥薩線では一番高いところにある駅である。人吉から、後ほど述べる矢岳越えを経て吉松までの標高は図10のようである。肥薩線が難工事の末の完成であったことは、大畑駅にある難工事犠牲殉職者慰霊碑や矢岳第一トンネルの南北口にある伊三郎や新平の扁額からも推察できる。
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図10 人吉駅から吉松駅までの標高

 矢岳の次は宮崎県えびの市の真幸(まさき)駅である。真幸駅はJR九州肥薩線(えびの高原線)の駅で、宮崎県で初めて、明治44年(1911年)できた駅であり、今も開設当時のままの姿で残っている。図11左がそうである。駅を訪ねる旅人の目当てはこれだけではない。真幸は、まこと(眞)のさち(幸)と書くので、真の幸を求め、いつの世もこの駅名にあやかる人は多く、入場券だけを買いにくる人も絶えない。
 真幸駅に車で行くときには、国道447号線が駅舎に近づき、遠ざかるような形で連れて行ってくれる。ここも険しい山間線路なので、列車は真幸駅に入ったあと、図11右の写真の中に破線で示すように、引き返して再び駅の上の線路へと折り返す逆Z型のスイッチバック方式で走っている。駅ホームの中央には「幸せの鐘」(図2中)が下がっている。少し幸せな人は1回、さらに幸せを願う人は2回、欲張り幸せを願う人は3回ならせと看板がある。この駅は、今から千数百年もの昔、平安時代は「真斫駅(まさきえき)」という官道(中央と地方を結ぶ重要道)に設置された伝達用早馬の駅(駅家:うまや)だったそうである。急峻な山道、お馬さんも大変だったろう。
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図11 肥薩線の真幸駅    幸せの鐘    スイッチバック線路
 付言しておくと、現在では、「真幸」の意味を真の幸せととらえているが、平安時代より200〜300年前の飛鳥時代には、「真幸」の意味が「幸いにも」とか「運よく」とか、副詞の形で用いられていた。真幸駅観光に水差すようなことを書くのは、飛鳥時代悲運の有間皇子の歌にこういうのがあるからである。
「磐代の浜松が枝を引き結び 真幸(まさき)くあらばまた還り見む」
意味は、磐代(いわしろ:和歌山県の地名)の松の枝を結んだ、幸いにも(運よく)無事に帰ることができたらまたこれを見よう。

 この真幸駅から次の吉松駅までもまた急勾配の登り坂で、この間の第二山神トンネルで起きた悲しい事故のことは「肥薩線1」で紹介したが、真幸駅と矢岳駅間にある矢岳第一トンネルについて大事なことを書き忘れていた。それはトンネルの南北口に掲げられている扁額(へんがく)のことである。扁額とは、門やや鳥居など高い位置に掲出される額のことである。
 矢岳第一トンネル(全長2,096.17メートル)は矢岳駅と真幸駅の間にあり、そのトンネルの北側には、当時の逓信大臣であった山縣伊三郎の揮毫(きごう:毛筆で文字や絵を書くこと)で「天險若夷」(てんけんじゃくい)の扁額(へんがく)があり、南側には、当時の鉄道院総裁であった後藤新平の揮毫で「引重致遠」(いんじゅうちえん)と書かれた扁額が掲げてある。図12がそれらである。縦1 メートル、横2 メートルの石額である。「天險若夷」の意味は、まず、天…天下の、…険しい山越えの難所を、…簡単行き来できるようにしたにした、…何もない平らなような地面のように、つまりそれまで天下の難所と呼ばれていた山越えを地平のように行き来できるようになった、である。「引重致遠」は、重いものを引いて遠くに運ぶ、の意味であり、文字を続けると、「天險若夷引重致遠:てんけんじゃくいいんじゅうちえん」となり、その意味は、「天下の難所をトンネルによって平地であるかのようにしたおかげで、重い貨物を遠くへ運ぶことができるようになった」という意味になる。この2人の名前は、この区間を運行している観光列車「いさぶろう」・「しんぺい」にも使われていて、2人の名前が観光列車「いさぶろう・しんぺい」の由来でもある。
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図12 矢岳第一トンネルの山縣伊三郎と後藤新平の扁額
肥 薩線は後で述べるように赤字路線であるが、絶景の宝庫路線であり、昔懐かし夢とロマンの路線である。人吉駅を過ぎ、ループ線とスイッチバックの大畑駅を過ぎると左車窓から球磨盆地や市房山(1722m)や江代山(1607m)
が望める絶景のポイントにさしかかる。筆者は以前に、縄文人が肥薩線に乗って球磨盆地に来たのであれば、ここから初めて自らの移住地を眺めたことだろう、と書いた(「縄文人は肥薩線に乗って」熊日出版2014)。しかし何といっても、矢岳ー真幸間の矢岳越えの展望だろう。ここは日本三大車窓のひとつ言われる絶景である。図13がその風景で、30万年前に破局噴火をして、今は加久藤カルデラ盆地や高原となっている風景である。
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図13 肥薩線の矢岳越え風景(日本三大車窓の一つ)
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図14 肥薩線のうち山線:人吉―吉松間の要箇所
道路で言えば加久藤峠からも同じような風景が展望できる。中央の一番高い山が韓国岳(1700m)、左端の山が高千穂峰(1574m」)である。この山の裾野が春にはポピー、秋にはコスモスが咲き乱れる生駒高原である。右端が栗野岳(1094m)で、天気が良ければ、この山の右下に桜島(1117m)が見える。人吉方面への上りは「しんぺい号」、吉松方面への下りは「いさぶろう号」で眺めることができる。車内アナウンスが済むと停車していた列車が動き出す。人吉からだと、真幸の次が鹿児島県の吉松である。「いさぶろう・しんぺい」号の始発駅であり終着駅である。これまで紹介してきた肥薩線の山線、人吉―吉松間の要箇所を図14に示した。

肥薩線は、吉松の先は栗野・大隈横河・霧島温泉・嘉例川・表記山、そして終点の隼人駅になる。このうち、嘉例川駅は図15左に示すような鹿児島県内で最も古い木造の駅舎(登録有形文化財)で、明治36年(1903年)に開業、今は無人駅となっているが一日に2本の特急「はやとの風」が停まる。無人駅でも特急が停まるところが肥薩線らしい。
 隼人駅は肥薩線の終点であるが、現在、人吉・八代方面に直行する列車はなく、
吉松まで行って乗り換えるしかない。
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図15 肥薩線の嘉例川駅        隼人駅近くの隼人塚 
しかし、吉松から人吉・八代方面行き列車も一日に5本あるだけで、それも2〜3時間に1本、肥薩線が鹿児島本線であった頃の面影はない。2008年の結果では、肥薩線の営業係数は3780円、その意味は、100円稼ぐのに3780円もかかるということであり、典型的な赤
字路線となっている。ちなみに、九州新幹線は91円、辛うじて黒字である。平成21年(2009年)頃には、熊本発肥薩線経由の鹿児島中央駅まで「特急はやぶさ」が走ったことがある。ブルーの寝台車両5連で、さすがにSLではなく、デイゼル機関車の重連で引っ張った。
 
 隼人駅の近くには図15右のような隼人塚や熊襲塚がある。隼人塚については寺院跡の説もあるが、和銅元年説熊襲の祟り鎮めのため和銅元年(708年)に作ったとか、720年の隼人の反乱における死者の慰霊のために作ったという説があるがはっきりしていない。筆者は、先の「ふるさと探訪」で「球磨は狗奴国・熊襲国」と書いたが、隼人塚は、その子孫か末裔の熊襲の塚とも言われている。隼人(はやと)とは、南の人という意味があり、人吉・球磨地方から以南の地域の人達である。隼人族は大和民族とは風俗習慣を異にして、大和の政権には従属せず、しばしば反抗していた部族であり、さかのぼれば三世紀の弥生時代、邪馬台国の女王卑弥呼に敵対した狗奴国の末裔(まつえい)と考えられている。隼人族も、古墳時代には大和王権の支配下に組み込まれるが、その反骨精神は明治維新まで引き継がれていた。
 <本稿は終りです。ご笑覧いただきありがとうございました。次回から、今から80年も昔、須恵村に居住しながら日本の農山村を調査されたエンブリーさんを感心させた講金やカタイなど人吉球磨地方に残る助け合い精神の話です>

杉下潤二 junji@siren.ocn.ne.jp
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