2018年6月16日
・講金(こうぎん)や頼母子講(たのもしこう)とエンブリーさん
沖縄や鹿児島県の奄美群島では模合(もあい)だが、宮崎でも、鹿児島でも、全国的に「頼母子講:たのもしこう」という呼び方をされていて、今も人吉球磨地方で続いているのは「こうぎん:講金」と呼ばれている。講金と頼母子講はほぼ同じ仕組みであり、同じ目的で行われている。人吉球磨地方でも、以前は「頼母子講」と呼ばれていた地域もある。たとえば、当時の須恵村に滞在し、日本の農村を研究調査されたアメリカの人類学者、ジョンF・エンブリー博士の著書、「Sue Mura, A Japanese Village」、和訳名「日本の村落:須恵村」には、この地域の「頼母子講」の詳細が記載されている。また、湯前下村婦人会市房漬加工組合の「市房漬」は「頼母子講」がその活動母体であった。
講金(こうぎん)とは、信頼のおける仲間同士が、定期的に集まり、お金を出し合い、順番にまとまった金額を手に入れる仕組みである。必要な時、金融機関に頼らず、利息もなしで、まとまったお金を手にすることができるといった経済的な面と、会員(講員)同士の親睦交流を図ることが講金の大きな目的となっている。信頼のおける仲間は、同級生同士、親戚(子や兄弟、いとこ同士)、職場や地域の仲間同士などである。この「続ふるさと探訪」で先述した「隠れ信仰」と講金との関りを述べる前に、いま、八代や人吉・球磨地方で行われて講金の具体的なやり方の幾つかを紹介しよう。
(1)構成メンバーは同級生の11名であり、毎月開催する。持ち寄るお金は14、000円である。そのうち8、000円が受け取り人のお金で、11名だと受取人の額は8万円(本人分も含めると8万8千円)になる。3、000円を積立金とし、3、000円を懇親のための会食経費にあてる。講金の受け取りは、順番か希望によって決める。積立金は貯金し、利息は旅行などの親睦会費に充当するとのことである。
(2)同じ岡原地区で行われている「いとこ会」による講金では、持ち寄るお金
払う仕組みだそうである。ただ、高齢化によって飲める人少なくなってきたので懇親の意味も小さくなり、区切りのいいところで終わりにすることになっているとのことである。
(3)地元の農業友人同士でやっている講金は、2ヶ月に1回の集まり、お金は10、000円程度を出し合い、受取人を決めるのでなく、飲食代以外を積み立てて年1回の旅行代金にするとのことである。
(4)人吉で行われている講金の例を「おてもやん」さんのプログから紹介すると、次のような方法と内容である。開催日は、偶数月の第2土曜日の午後7時から行い、メンバーは羊年と猿年生まれの同年代の11名で構成している。来年で30年目になるとのことである。持ち寄るお金は、10、000円の講金代と3、500円の食事代である。受け取りは希望順で、額は自分のものも含めると110、000円になる。講金の集まりでは食事の他にボーリングをしたりしているが、今後は福祉などのボランティア活動も視野に入れた集まりを目指しているとのことである。
(5)八代市鏡町の文政小学校同級生による「文政講金」の月例会が開催され、積立金は遠征登山経費に充てると、宇城市の「しらぬいのがね」さんのプログにあった。
(6)筆者の友人の話では、昔(40〜50年前)の講金は、一巡するまで20年を要するほど規模も大きく、中には講金で家を建てた人があるとのとのことである。
このように、現代も続いている講金は、お金を持ち寄るのであるが、昭和30年代位までの講金は、お金の代わりに米などを持ち寄り、それを売って資金源にしたり、労働力を提供したりすることもあったようである。労働力を提供しあういわゆる「もやい仕事」については後述する。
先ほど紹介した昭和10年(1935年)頃、日本の農村を調査研究されたジョンF・エンブリー博士の著書「Sue Mura, A Japanese Village」や元熊本商大の牛島盛光教授の著書「変貌する須恵村」によると、当時の須恵村や球磨地方で盛んに行われていた「講」のことが詳しくのべられている。その中から、今では想定できない講をエンブリーさんは紹介している。
「傘掛け」は「雨講」とも呼ばれ、免田の雨傘屋 によってはじめられ、通常的には、集落の仕事の一部分として行われていた。この講は、毎月の寄合だと各人はその傘屋に50銭を出し、隔月ならば1円を出す。幸運の札を勝ち得た者は傘屋から4〜5本の雨傘を受けとる仕組みになっていた。
ところで、「免田の雨傘屋」さんとは、免田のどのあたりで、今はどうなっているのだろうか。あさぎり町議会の山口和幸さんに調べてもらった。それによると、一つは、あさぎり町免田東本町の青木屋旅館の傘修繕屋ではないかとのこと。もう一つは、現在の南稜高校東側の千蔵に傘屋さんがあり、ここは修繕だけではなく製造販売もしていたとのことである。青木や旅館は現在もあるが、傘の修理はやっていない。千蔵の傘屋さんは、もちろん現在は廃業されているが、往時の農作業は雨が降れば蓑笠(みのかさ)であるが、番傘(唐傘)の製造販売所はあったのである。したがって、講金で傘を買うのであるから、エンブリーさんの「須恵村」に出てくる「免田の傘屋」さんは、千蔵の傘屋さんだったと思われる。ただ、「千蔵」は免田と上北地区の境界付近であり、正確には免田ではない。
「雨講」に類似したものに「靴講」がある。くじに当たった者はその金で靴を買うのである。学校へ行くのも草履や下駄の時代、筆者は、岡原から水上村の猫寺まで、距離にして8キロを下駄履いて遠足した思い出がある。靴は子供にとっても大人にとっても憧れの履物であったことがわかる。
「畜産講」というものもあって、お金を手にした人は元気な若い牛馬を買うとか、これまでの家畜をいいものに取り替えるために使うのである。しかし、いずれ講も懇親を目的としたものであったという。この他にも、この地方には、馬車講、養蚕講、屋根葺講、伊勢講、観音講、婦人講、布団講等もあったことを紹介していて、この地方がいかに助け合い、協調し合って生活していたかが分かる。
講金や頼母子講、およびもやいの仕組みを具体的にまとめておくとこうである。まずは講だが、講元とか座元と呼ばれる主宰者が信用のおける仲間を集めて始める。仮に、毎月5万円ずつ持ち寄る仲間が10名集まってスタートしたとすると、毎月合計50万円が持ち寄られ、仲間の1人がそれを受け取る。積立は毎月行われ、そのつど誰かが60万円を受け取っていき、10か月後に全員が60万円を受け取って終了することになる。しかし、親睦交流も目的としているから一巡で終わることはまれで、継続されことが多い。このシステムでは損も得もないが金融機関から借りるとなると利息を払わなければならないがその必要はない。ないばかりか、生活地域からお金が他所へ出ていくことを防ぐ役目もあり、積立金を預貯金しておけば利子利息も生じることになる。このシステムが営利目的でなければ法的には問題ない。営利目的の場合は相互銀行法と無尽業法で規制されている。
鹿児島国際大学の中野哲二先生の報告(鹿児島経済論集第44巻 第3号2004年)によると、昭和30年の「講」調査によると、65%の農村に各種の講が存在し、「講」が単なる宗教や金融面だけのためではなく共同体の共存策としての知恵だったと筆者は考える。
<つづく:次回は、「もやい」「かちゃ」「かたい」とか、これは、お金ではなく労働力に置き換えた相互扶助システムの話>
杉下潤二 (あさぎり町中部ふるさと会顧問)junji@siren.ocn.ne.jp