2018年6月23日
・講金の歴史:「仏飯講」と「もやい仕事」
利子も利息も払う必要がなく、抵当権も担保物件も必要なく、欲しいときに、まとまったお金を手にすることが出来、返済は月賦や分割払いですませることができる。こんな巧妙な金融システム、相互扶助システムは、いつ、誰が考えついたのだろうか。その歴史をさぐると、これがまた、先に述べた禁教の隠れ信仰組織「仏飯講」が発端だったことも明らかになった。以下、その詳細である。
「講」とは、本来、仏教の講話を聞くために集る人たちの集会のことである。しかし、信仰とは無関係の同志的結社、村落社会における結合の単位として存在するようになり、その機能も本来の宗教的なものと経済的なものに収束していき、今日でも継続している講は親睦交流の場ともなっている。
宗教的なものというのは、鹿児島県の「田の神講:たのかんこ」とか、先に述べた庚申信仰に基づく「庚申講」などであるが、特定の神社仏閣を参拝するための講(代参講)、すなはち「伊勢講」とか「金比羅講」とか「善光寺講」などがそうである。お伊勢参り(お陰参り)は、当時、庶民の最も強い憧れであり、一生に一度の贅沢願望であった。須恵村の伊勢講と神事についてエンブリーさんは次のように紹介している。観音講のメンバーと異なり、伊勢講は上組の9戸と下組の13戸に分かれ、5月16日と9月16日の年2回行っている。講の当日には、座主の家の床の間に天照大神宮の掛軸が掛けられる。一方、「ぬしどり」は、あらかじめ各戸から徴集してあった講費100円の中から焼酎、肴(さかな)、菓子、ローソク等を準備する。座主の家に揃ったところで、神主が祝詞をとなえる。そのあと神酒をいただくだけで神事はおわり、簡単な飲み方があって散会する。ちなみに当時、昭和10年頃の物価は、大卒の初任給が約100円であるから、講費100円は相当な高額である。「ぬしどり」とは、講のリーダーであり総責任者のことである。
筆者の祖母は、お伊勢参りしたことをいつも得意げに話していた。時期は、肥薩線が開通して10年後位の頃であるから、行くのも大変だっただろうが、何よりお金である。そのお金の出どころが「伊勢講」であった。お金を出し合い、受け取ったものが代表して「お伊勢参り」に出かける代参である。この仕組みで講員のすべてが、いずれお伊勢参りできることになる。
人吉球磨地方の講金は「仏飯講」にそのルーツがある。以前にも述べたように、薩摩や相良藩では、浄土真宗などの真宗が禁制であった。禁制の中でひそかに浄土真宗を信仰していた人々の救いが仏飯講であった。仏飯講の「仏飯」は仏前に備えるご飯であり、ご飯を盛る器が「仏飯器」である。取り締まり圧政下で、お供えした仏飯のお下がりを皆で分かち合い飢えをしのいだとという言い伝えから信仰集団の名が仏飯講になり、しばしば一揆など権力者に対する反抗基盤となっていた。
明治初年までは薩摩藩だった宮崎県の西諸県・北諸県地方や鹿児島県の北薩地方では「内場仏飯講」が知られているが、人吉球磨地方では「山田村の伝助さんと仏飯講」が有名である。山田村とは、現在の球磨郡山江村の山田地区であり、明治22年(1889年)山田村と万江村が合併して山江村となった。その山田村に伝助さんがいて、この方は、講の重要な世話役は以前にも紹介したように「毛坊主」と呼ばれる人で、禁教令下にあって命をかけて真宗信仰を守った人である。伝助さんの活動母体が「仏飯講」という地下組織の秘密結社であった。しかし、伝助さんや隠れ信者も捉えられ処刑され、いま、山江村の合戦峰(かしのみね)に殉教者や伝助さんの墓供養碑が残されている。また、山江村山田の民家墓地には、伝助の初代、二代、三代の墓があり、位牌は本願寺人吉別院(浄土真宗本願寺派)に預けられているとのことである。
経済的なものというのは、先に例示したよう金融の相互扶助であり、同じ目的の「頼母子講:たのもしこう」や「無尽講:むじんこう」がある。沖縄や奄美地方では模合(もあい)といい、頼母子講(たのもしこう)は鎌倉時代に発生したとされている。
エンブリーさん(ジョンF.エンブリーJohn F.Embree、1908-1950)が調査した昭和10年(1935年)頃の須恵村は285世帯、1663人であり、面積でも熊本県下7番目の小さな村であった。こんな小さな山奥の田舎がどうしてエンブリー夫妻の調査地に選ばれたのであろうか。民俗学者柳田国男氏の紹介との説もあるが、規模がフィールドワークに適当で、村人たちがオープンで親切だったことが、この村を調査地に定めた最大の理由だったそうである。エンブリーさんが、その著書「須恵村」のなかで、須恵村やその近隣地区の良さは協調・共同・相互扶助の精神の地であり、「はじあい」とか「かったり」に代表されているという。「はじあい」は、実際はハジャーに近い発音だそうで、「地域連帯でお互いに助け合い、寄り合う」という意味の須恵地方の方言であるが、ほとんどの人は知らないという。「かったり」は労働作業を貸し借りすることであり、地域によっては「もやい」とか「かたい」「かちゃ」といい、昔の田植えは「もやい仕事」であった。
筆者が子供の頃は我が家も「かたい」で「もやい仕事」の田植えをしていた。加勢(かせい:手伝うこと)を依頼するのは、大体、親戚縁者である。例えば、Aさんが二人、Bさん宅からは3人が我が家に加勢に来てくれたとする。Aさんが田植えするときは当然我が家からも二人が出て加勢するのである。Bさん宅からは3人の加勢があったけれども、我が家からのお返しは二人しか出来なかったとき、我が家はBさんに一人分の労力の借りができることになる。しかし、親戚同士での「かたい」は、少しぐらい差ができても目くじらを立てなかったが、借り側にとっては、そのことが過労につながる場合が多々あった。もっとややこしいのは、Cさんが田植えの準備作業に、馬を連れて加勢してくれた場合である。馬、農耕馬がいなければ耕すこともならすことも出来なかった時代である。馬連れの加勢は、同じようなお返しをしなければ「かたい」にならない。しかし、馬なしのお返しの場合も出てくる。特に、親戚縁者でない場合、馬連れ加勢は日当が高いのである。馬ではなく馬を使う男の人の日当が高いのである。馬を使う男性日当は人間だけの場合の3倍であり、一般の人は沢庵のおかずであっても、馬を使って代掻きをする男性の昼食には生卵がつくなど、別待遇であった。
この清算は「さなぼり:田植の終わった後の祝祭休日」頃にお金でおこなう。どうしても大農家ほど借りは大きくなり、小農家にとっては、農繁期は現金収入の季節でもあった。しかし、現在、農業が機械化され、人手もいらなくなって「かたい」や「モヤイ仕事」も死語になっている。
沖縄地方では「ゆい」とか「ゆいまーる」といい、順番に労力交換を行なうこと、相互補助ないし扶助である。沖縄地方に限らず日本の農山村では、村共有の山野を「もやい山」「入会山」と呼んだりしていたが、今日では共同生産の例は少なく、伐採、木材流し、屋根葺き用の茅切りなどが残るのみである。そのほか、道普請(みちぶしん)や神社の祭礼での奉仕を「もやい仕事」として行うことはおこなわれているが、村共同の「もやい風呂」や、共同で祝儀・不祝儀用の器具をもち「もやい道具」を利用する慣行もあったが、今日ではこれもほとんどなくなっている。
先のエンブリー夫妻は、女の子たちが集落のお堂で蚤(のみ)か虱(しらみ)を取っている写真とか、老女が上半身裸で仕事している写真を「須恵村の女性」の中に載せている。村の関係者は、この本が再発行されるときは、この写真だけ外してもらうように頼むと言ってたそうである。しかしこの時代は、宮崎康平さんの「島原の子守歌」の歌詞にもあるように、「唐芋飯(といもめし)や粟ん飯(あわんめし)は黄金飯(こがねめし)だった。貧しい時代であったからこそ、このような相互扶助・助け合いの協調社会が球磨地方には出来ていたのである。
<本稿は終りです。ご笑覧に感謝します。次回から、皆さんから寄せられた 数々の昔懐かしいふるさとの味です>
杉下潤二 junji@siren.ocn.ne.jp