2018年8月 3日
9.柿(かき)
青木光一さんの昭和32年のヒット曲、「柿の木坂の家」の歌詞の一番に柿の実がでてくる。
♪春には柿の花が咲き 秋には柿の実が熟れる・・♪
である。この懐メロを聞くと、柿の木があった故郷を思い出す、という便りを現在、岐阜県在住の匿名希望の方からいただいた。また、佐賀出身の方は、柿のシモゴネについて、「・・我が家の庭にも甘柿、渋柿いろいろ植えてあった。彼岸柿(盆柿)は、小さい柿で、彼岸にはもうゴマが入っていて食べられた。とんがった霜捏ね(シモゴネ)という柿は一番おいしかった。弟もこれが大好きで、二人でムシャムシャ喰った。これは霜が降る頃までたべることができ、そのころは四角く平べったい富有柿のような甘柿はあまりなかった・・」
人吉球磨地方のオヤツを紹介してきたが、子供のオヤツといえば、なんと言っても柿である。フユガキ、シモゴネ、キャラ、盆柿、熟した渋柿もあった。フユガキは平らな形をして、今でこそ人気の柿であるが、素朴で、柿らしかったのは、佐賀の方も語られているようにシモゴネである。シモゴネは細長く、黒いゴマが入っていた。キャラはふっくらと丸い形をしていて、一番おいしかった柿である。盆柿(彼岸柿?)は、親指ほどの小さな柿で、柿の原種に近く、一番早く食べることのでき、名の通りお盆の頃にはかじることができた。
筆者の家にも何本かの柿の木があり、実がなる頃には瓦屋根まで垂れ下がっていた。高い木に登れないと屋根に上がって柿をもぎ食べていた。近年は柿の種類も多く、主な甘柿は18種、渋柿も20数種がある。先ほどあげたシモゴネ、とかキャラなどの名は方言らしく、今の甘柿の品種名にはない。図9に示す太秋柿も、筆者が子供のころはなかったが、大きさはソフトボール位で、この頃は球磨郡でも栽培され、贈答品として売られている。この太秋柿は、「富
有柿」をベースに「次郎柿」と「興津15号柿」を掛け合わせて出来た品種らしく、昭和19年(1944年)には品種登録されており、古い歴史をもつ柿である。この柿の栽培面積は、全国の45%が熊本県であり、太秋柿はまさに熊本の柿といえる。太秋柿は熟していくと、図9左に示すように、『条紋』と呼ばれる筋線が入ってくる。
見た目により傷のように見えるが、甘さとシャッキとした食感の『印』だそうである。このような、おいしく種もなく食べやすい柿でも、近年、子供たちが道端の柿をちぎって、かじっている風景は一度も見たことがない。柿などより手軽なオヤツが溢れているせいなのだろう。最近は、柿に限らず子供たちが、自然の果物をそのまま食べることがないような気がするのは筆者だけだろうか。
筆者も、太秋柿の幼木を多良木で購入して植えている。「桃栗3年柿8年」だから90歳までには収穫できるかも知れないからである。友人が嬉しいことを言ってくれた。接ぎ木だからあと5年くらいでなるよ!と・・。
10.栗(くり)
「あさぎり町岡原の黒原山(1017m)の山道を行くと小さな山栗が落ちていて、父親の車が踏みそうなので止めてもらい、降りて親指ほどの小さな山栗を幾つも拾った。この栗は、何千年も昔から日本にある栗だよと父は教えてくれた。そのため食べずに、ずっと宝物していた日が懐かしい」。こんな便りをいただいたのは滋賀県大津市在住の長谷さんである。栗を食べるころになると「里の秋」のメロディーが今も自然でてきます、とは、山江村出身で北海道北見にお住まいの天童さんである。「里の秋」は日本の歌百選の一つである。
1 静かな静かな 里の秋 お背戸に木の実の 落ちる夜は ああ母さんと ただ二人 栗の実煮てます いろりばた
2 明るい明るい 星の空 鳴き鳴き夜鴨の 渡る夜は ああ父さんの あの笑顔 栗の実食べては おもいだす
もう50数年も前になるが、筆者の自宅にも栗の木があった。農業構造改善事業とかで伐採されてしまい、今は水田になってしまっているが、栗の木がある頃は、いがが開いて落ちてくるのが待ちきれず、割れそうなのを見つけては叩き落して、チクチク刺されながら実を取り出した思い出がある。
熊本県は、メロンやトマト生産では日本一であることは知っていたが、栗が全国第3位の生産県であることを筆者は知らなかった。ちなみに、平成27年度(2015年)の栗生産県の第1位は茨城県、2位が愛媛県だそうである。ネットでは、人吉・球磨地方における栗の生産は錦町西の賀久農園(かくのうえん)やJA球磨の関連会社である「株式会社クマレイ」が運営している「球磨栗本舗」がオンラインショップとして加工品の栗ペースト(ゆでた栗を裏漉しして砂糖と牛乳を加えてペースト状にしたもの)を製造販売していることが紹介されている。しかし、栗といえば、やはり約9割を山林が占める山江村の栗、大粒でほっくりとした甘みの「やまえ栗」である。シーズンには九州自動車道の山江SAでは、図10右端に示すような、1個140円の手作り「栗饅頭」の蒸篭(せいろ)が並び湯気を立てている。
栗は今から9000年前、縄文時代の早期に我国で自生していたといわれ、青森県の三内丸山遺跡から出土物のDNA分析によると縄文時代には既に優良種を選択して栽培していて、他の木の実と共に栗は主食であったとも推測されている。3世紀の弥生時代、女王卑弥呼の邪馬台国時代には稲作も始まるが、栗などの木の実も穀物食を補うものであった。奈良時代になると栗はオヤツ代わりであったことが万葉集の歌から推測できる。たとえば、山上憶良が大宰府に単身赴任していて自分の子を思う親心が伝わる長歌(万葉集巻5−802)に栗が出ている。
万葉仮名では、「宇利波米婆 胡藤母意母保由 久利波米婆 麻斯提斯農波由 伊豆久欲利 枳多利斯物能曽 麻奈迦比尓 母等奈可可利提 夜周伊斯奈佐農」で
ある。読みは、「瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ いずくより来りしものぞ まなかひに もとなかかりて 安寐(やすい)し寝さぬ」である。
難しい古語の説明は省略して、この長歌の意味するところは、瓜を食べると子ども見てもそうだが、栗を食べるとなおも偲ばれる、こんなに可愛い子どもというものは一体どういう宿縁でどこから我が子として生まれてきたものであろうか、眼にちらついて熟睡させてくれない。
平安や鎌倉時代になっても栗は大事な食べ物だったようで、栗拾いも続いていた。こんな歌が残っている。
「栗も笑み をかしかるらんと思ふにも いでやゆかしや秋の山里」
意味は、麓の山里の栗は毬(いが)もはじけて微笑みかけている頃だろう、さぁ栗狩りに出掛けよう、うきうきするような気分だ、である。
この歌は、平安時代末から鎌倉時代初期にかけての女流歌人、建礼門院右京大夫(けんれいもんいんうきょうのだいぶ)という人の歌である。
縄文時代からこの時代までの栗は、黒原山の山栗のように小粒の「シバ栗」の種であったようで、長谷さんのお父さんが言われたとおりで、現在のような大粒の栗ではなかった。それでも、お菓子類がなかった古代では栗やマクワ瓜は子供も大人も大好物であったが、買うと高かったようである。正倉院文書によると栗は一升(約1.8リットル)で約8文(約200円)、米の5文(約125円)よりも高く、贅沢品だった。
(つづく:次回は、ぐみ、さとがら、つばな、にっけ)
杉下潤二junji@siren.ocn.ne.jp