あさぎり町中部ふるさと会

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2016年9月 2日

第6回 八代妙見祭 河童渡来伝説

その4)呉人は「河童」にされた?
 
 その伝説とは八代の河童渡来伝説のことである。そのことを書いてある「河童渡来の碑」を図1に示す。球磨川は八代市内で二つに分かれるが、北側が前川、南側が南川と呼ばれる。その前川にかかる前川橋のたもとに碑はある。八代城跡の南約500mの所にあり、この場所も一度は訪ねたい場所である。
 碑には、「この地は千五、六百年前、河童が中国方面より初めて日本に来て住み着いたと伝えられる場所で、碑の石材は、三百五十年来の橋石でガラッパ石と呼ばれ、ある日、いたずら河童が付近の人々に捕えられ、この石がすり減って消えるまで(筆者の試算では石がすり減って無くなるまで約40億年かかる)、いたずらはしないと誓い、年に一度の祭を請うたので、住民はその願を聞き入れて、祭を五月十八日と定め、今でもオレオレデーライタ河祭と名付けて毎年祭を行っている」と記されている。
 今はどこにでもある親水川岸であるが、この場所は徳渕(とくぶち)の津といわれ、古くから海外への貿易船を出してにぎわった港であった。碑文のなかに
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            図1 「河童渡来の碑」(八代市本町2丁目)
ある「オレオレデーライタ」は呪文か経文のような不思議な文句であるが、一説によると「呉人呉人的来多」つまり、「中国の呉の国からたくさんの人がやって来た」という意味だそうで、これが定説のようである。
 呉という国は中国の古代国家であるが、ややこしいことに二つの時代に存在する。一つは、春秋時代の呉であり、紀元前585年- 紀元前473年、今から約2500年前、長江の河口付近にあった国で「越」という国と争っていた。長江の河口付近とは現在の蘇州周辺であり、この周辺の土地を「呉地」といい、住んでいる人は「呉人」と呼ばれていたそうである。事実だとすれば、先ほどの「オレオレデーライタ:呉人呉人的来多」が真実味をおびてくるし、八代への渡来人の上陸時期が極端に早まることになる。
 もう一つの呉の国は、三国志で有名な魏・蜀・呉の三国時代の「呉」で、西暦222年 – 280年、今から約1800年前にやはり長江以南の流域にあった国である。先の「呉人呉人的来多」の呉人がこの三国時代の呉の国から来た人であるならば、今から約1800年前の弥生時代ということになり、この時代の遺跡は八代地方にも存在する。
 江戸時代(延享3年、1746年)の俳人であり作家であった菊岡沾凉という人が書いた「本朝俗諺志」という本には八代の河童のことが次のように記されている。「中国の黄河にいた河童が一族郎党引き連れ八代にやって来て球磨川に住み着くようになり、一族は繁栄してその数九千匹になった。その頭領を九千坊(くせんぼう)と呼ぶようになったが、河童どものいたずらが激しく人々を困らせた。
加藤清正はこれを怒り九州中の猿に命令して、これを攻めさせた。これには河童も降参して、久留米の有馬公(藩主)の許しを得て筑後川に移り住み水天宮の使いをするようになった
傍線部の加藤清正が云々は時代的に合わないので後世における付け足しであろう。しかし、球磨川沿いに多くの河童、つまり、よそ者の渡来人が棲みつき、先住民との争いごとが絶えなかったことは、河童どものいたずら、とか筑後川に移り住んだ、という文言から理解できる。図1の碑のすぐ近くに図2のような焼酎飲みの河童像がある。
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              図2  球磨川河畔の河童像             
                                         <つづく>

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